片耳
シロガネからの連絡を受けて統括はすぐさまトウキの元に警備隊を派遣した。部屋のドアをノックすると、鍵は元々かかっておらずギィと軋んだ嫌な音を立ててドアが開いた。
「な…なんだ…これは」
饐えた臭いが鼻につく。部屋の異様な光景に警備隊の一人は絶句した。赤い半透明の巨大なミミズのような物体がウネウネと蠢く部屋にはもう誰もいなかった。ただベッドの上にはあちこちに血を擦り付けたような跡が残っており、そこになぜか片方の耳が落ちていた。噛み切られたような耳を拾い上げたもう一人の警備隊の男性はそれを透明な袋の中に慎重に入れる。
「…トウキの耳だ…本人はどこに消えた?」
開いた窓から外を見に行った男性は手すりについた血液も回収した。身を乗り出して上の階と地面の方に目を凝らす。上の階のベランダにも血がついていたので、彼は手すりに飛び乗ると、そのまま驚異的な跳躍力を利用して屋上を見に行った。屋上にも所々に血が落ちていたが、隣の建物との間を覗き込んだところで、彼は鼻がムズムズし始めた。
「…獣臭いな…犬か?」
「おい、戻ってこい。近くにはもういない」
もう一人の警備隊員の呼ぶ声が聞こえる。
「犬だな!クソっ!俺はアレルギー持ちなんだよ!」
彼は大きなくしゃみをした。降りてきた彼は鼻をかみながら全く表情を変えないサギリに向かって顔をしかめて言った。
「恐らくハイアオの犬だろう…」
「あぁ……」
ベランダを確認したサギリはもう一度部屋に戻るとベッドのシーツに飛び散った血を回収した。
「ハイアオの犬なら食うはずなのに、なぜ食わなかったんだ…?」
サギリは静かに言った。
「え?耳のことか?」
「あぁ…そうだ。耳が片方落ちていただろう?」
「好みじゃなかった…とか」
「あるいは…相手の話を聞かない耳は不要と判断したのか…」
「え?なんだ随分と詳しいな。個人的に関わったことがあるのか?」
「いや、直接は関わってはいない。でも波紋をギリギリ起こさないところが姑息な手段を使って階級を上げてきた奴らしいというか。決して自分の手は汚さない奴だ。吝嗇家なのかな」
サギリの言葉にススキという名の警備隊員は肩をすくめた。
「あんたでも特定の誰かに辛辣なことがあるんだな?」
「は?辛辣?別にいつも通りだろう」
サギリは赤い半透明のミミズに鎌を刺して消し去る。テーブルの上には伸び切ってふやけたカップラーメンの麺が飛び出て広がっていた。食べるつもりで作ったのにほぼ食べなかったようだ。サギリは冷蔵庫を開ける。飲みかけのペットボトルが二本と料理酒に味噌。
「ほとんど…何も入ってないな…」
部屋の収納を確認していると、押し入れの天井の板が少しズレていた。サギリは懐中電灯で照らしながらその板を避ける。中に袋があった。引っ張り下ろすと、少しほこりのかかった大きな袋の中に、更に複数のビニール袋が入っていた。中を開けると、派手な女物の下着や化粧品、歯ブラシやコップなどがそれぞれのビニール袋にまとめて乱雑に入れられていた。ビニール袋には全て違う名前が書かれている。泊まった女の名前だろうかとサギリは考えて眉をピクリと上げた。
「…なんですかこれ…?えっ?」
袋の一つを開けたススキは髪の毛の絡んだままのヘアーブラシを見つけて嫌そうな顔になる。ススキは実は髪が苦手だ。長い髪が落ちているだけでゾッとする。
「複数の女と付き合ってた…?いや、付き合ってはいないのか。さすがにこれだけの人数と付き合えば波紋が出る…」
サギリは一番残された物の量の多い袋の名前に見覚えがあった。もう一つの袋にも知った名前がある。
「あれっ?これって…病院でいきなり鎌振り回した研修生じゃないのか?」
ススキも気付いて渋面になった。サギリはその名前の書かれた袋の中に丸まって入っていたレシートをつまみ出す。
「日付が古いな…化粧品と歯ブラシを買っている。この時期、トウキはまだアキと付き合っていたはずだ…」
「…友だちってことか…?俺は好きでもない異性を自分の家に気軽に泊めるなんてことはないから、その辺の心理は理解できないな。男女の友情なんてものは所詮は幻だ」
「…幻?それは言い過ぎじゃないのか?友情だってあるだろう。ま、この場合、トウキにその気はなかったが、女の方はそうではなかった、という特定の条件が付随することもある。現にトウキは波紋にはならなかったが女の方には出た…」
「女の好意を利用してたってことか?それか、女の方も利用されてもいいと思っていた…」
小さな袋に目をやったサギリは呆れたようにつぶやいた。
「チグサ…まったく…この女も何を考えているのか私には理解できないな…昨今の若者の考え方がだんだん分からなくなっていくよ。時代のせいなのか、単に私が古いのか…」
サギリの疲れたような口調にススキはちらりとその横顔を盗み見た。男性になっていても整った顔立ちだ。統括はこういうのが好みなのかと思う。
「…気味は悪いが、これも押収する。今後波紋が出るかもしれない」
「…サギリ、お前…大丈夫か?」
「何がだ?」
「いや…最近よく統括に呼ばれているから…」
「あぁ、なんだ、そんなことか。あの人はパソコンが苦手だからデータの整理なんかを手伝ってるんだよ、それだけだ」
統括が苦手なのは本当だし、整理を手伝うこともあったから別にサギリは嘘を言った訳ではなかった。他人を貶める嘘も時と場合によっては波紋が生じることもままある。だが、言わないことが波紋になった例はない。データ整理の傍ら、サギリが統括に受けている個人指導に関しては、いちいち誰かに告げる必要はなかった。
「データ?」
「あぁ、だからトウキに関しても知っていた。たまたま資料をまとめたから。でも勝手にペラペラ話していい内容ではないから、私が手伝ったことで知った情報に関しては黙っていなければならないんだ。余計な先入観を与えるから。でもトウキに関しては…ハイアオの犬に引っ張られた段階で…もう、死神としての道は絶たれたに等しい…」
「だけど、あの子は戻ってきただろ?ツブシって言ったか?今は真面目に頑張ってるみたいじゃないか」
ススキの言葉にサギリは薄っすらと笑みを浮かべた。普段あまり表情の動かない相手が笑うとむしろ怖いとススキは思ったが余計なことは言わずにおく。
「あぁ…ツブシは…どちらかと言えば運が良かった方だな。特別区に助けを求めた…でも、トウキはむしろ特別区に偉そうに侵入した挙句に尻尾を巻いて逃げ出した負け犬のような動きをしているから…切羽詰まっても無様に特別区に助けを求めるなんて選択はしないよ。格好だけはつけたいんだ。元カノにそんなみっともない姿はそう何度も晒したくはないだろ?」
「あぁ…プライドだけは高いってことか。でも自身の存在が消えるか残るかの瀬戸際でも…格好なんてつけるのか?」
ススキは引出しを開ける。ごちゃごちゃになった紙の束が飛び出てきて開けた引出しは閉まらなくなった。
「自分が今どこまで危険な状態にあるのかの判断もつかないんだよ。だいたい会ったばかりの女かどうかも怪しい者を家に入れるか?夕方以降の来客には注意すること。誰そ彼時なんてものは、一番こちらとあちらの境目が溶けて危うくなる時間帯なんだ。完全に夜の帳が降りた時間より、よほど危険だ」
サギリはそう言って口を閉じた。テーブルの上のビニール袋にふと目を凝らす。つまんでススキの鼻の前に差し出した。ススキは嫌な顔をしてクシャミを連発した。
「なんなんだ!うわっ!よく見たら犬の毛がついてるじゃないか!」
「袋…ふやけたカップ麺…異形化した魂は半透明の赤…これだけ食べ物が何もない家にカップ麺…」
サギリはカップの方に注目する。ごくありふれたメーカーだ。
「これだけ犬の毛がついてるってことは、この袋にこのカップ麺を入れて訪ねて来たんじゃないか?で、カップ麺を食ってるところを襲われた…?」
「…いや…食べてない…食べてたらこんなに溢れ返ることはないだろう。食べられない状況になったのは当たっているにしても…いきなり訪ねてきた知らない女を部屋に招き入れるか?」
サギリは首を傾げる。そのとき足音が聞こえて小さな悲鳴が上がった。サギリは振り返る。
「お…お兄ちゃん!?何か…あったんですか!?」
コンビニの袋を片手に持った男性が驚いた様子で、一緒に手を繋いで青ざめた女性と共にそこに立ち尽くしていた。




