心停止
『前回のことがありますから、覚悟しておいてください』
なーんて言ったところで、ほんとに死んでしまっては言い訳にすらなんないよね。
一月ほど前、この子は子宮蓄膿症の手術をした。
その時、心臓が何度も止まったのだ。
その都度心マッサージで復活したものの、手術が終わるまでの間、わたしの心臓が止まりそうなくらい騒然としたのだった。
その時すでに小さな乳腺腫はあったものの、とてもじゃないけどそれも一緒に切除するなんてことはできなかった。
乳腺腫が大きくならずに、ずっと大人しくしていてくれればよかったんだけど...。
期待を裏切って急速に大きくなり、今では破裂寸前だった。
前回、前投薬、アセプロ、ベトルファール。
導入薬、プロポフォール。
今回は、どーする?
別の方法に変更することで、さらにおかしな結果になる危険性だってあるだろな。
同じ組み合わせで、同じことが起こって、同じ対処をすれば、同じ結果になるかも...、なんてことならいいけど。
やっぱ、同じことが起こらないようにすべきだよね。
だとすると、出来るだけ心拍に影響を与えない組み合わせがいいかな。
1週間ほど悩んで(まぁ、悩むほどの結論じゃないけど)...。
前投薬、ドルミカム。
導入薬、ケタ。
ケタの微量点滴でやってみようかとも思ったけど、なれないことはやめておいた方がいいので却下した。
当日、ワンコを預かる。
脈拍、62。
なんとも微妙な感じ...。
不整脈あり。
これ、シックサイナスとか...。
前回の手術のあとからちょくちょく見てると、少しずつ徐脈になってきてるような気がするな。
飼い主さんの話だと、普段の生活にはまったく支障は出てないようなんだけど。
留置して、安静にさせる。
徐脈が続けば、導入前にアトロピンを入れよう。
もし、それで効果がなければ、手術を中止して、大学病院を紹介しようかな。
手術までの時間...。
なんだか落ち着かない。
乳腺腫の大きさは、11センチ×8センチ。
こんな状況で乳腺の片側全摘なんて無茶はしない方がいいから、腫瘍だけの部分切除。
筋肉との固着はなさそうだけど、急に大きくなって来ているので血管はかなり豊富だろうな。
部分切除と言っても、いつもみたいにチビチビととってる余裕はないかも。
また、同じようになったらどーする?
頭の中でシミュレートする。
何かあった時の緊急薬は一応まとめておいてあるけど、今回はあらかじめディスポに吸っておこうかな。
アトロピン、グリコピロレート、プロタノール...。
間違えないようにラベルを貼付ける。
これ以上は、薬よりも心臓マッサージをしっかりやった方がいいだろうな。
さあ、時間だ。
導入前、脈拍、102。
これならアトロピンはなしだね。
ケタで心拍がさらに上がるだろうから。
不整脈は変わらず。
手術を中止する理由は、残念ながらないか...。
ドルミカム静注。
心拍を確認し、続けてケタ静注。
挿管。
手術室に運んでガス接続。
モニターをつける。
「おおっ、いい感じじゃない?!」
モニターに現れた心臓の波形は規則正しく、徐脈も不整脈もまったく心配ない状態だった。
なんだか、ちょっとひと安心。
でも、油断出来ない。とっと始めるぞ。
いつもならメスで皮膚を切開後、メッツェンで皮下を剥離し血管を確認しながら止血してゆくけど、今回は時間短縮のため、切皮後電気メスで一気に皮下を剥離してゆく。
切開と同時に凝固出来なかった血管から血液が噴き出す。
出血しているところに電気メスの先を当てて凝固に切り替える。
止まらない。
すぐにメスの先が黒い付着物に覆われる。
ピンセットで出血している血管をつかみ、電気メスの付着物のないところを当てて凝固する。
多少の出血は仕方ないな。
止血を確認したあと電気メスの先を研ぎ、どんどん進める。
早く手術を終えたいと気は焦るけど、幸いなことに心拍は規則正しくずっと安定している。
手術前に緊張してたことが、笑い話で済んでくれればいいな。
腫瘍の頭側乳腺は細いので電気メスでそのまま切断。
出血なし。
尾側は太いので結紮後切断。
切除終了。
洗浄後、残った出血点に電気メスを当てて止血してゆく。
よし、出血なし。
縫合しよう。
腫瘍の長さが11センチほどだったので、切除したあとの傷の長さは15センチちょっとになるだろうか。
まだまだ時間がかかりそう...。
左右にも大きく開いた傷を2ヶ所ほど単純結紮でよせると、わずかに呼吸の間隔が開いてきた。
「少し呼吸落ちて来た。気をつけて」
その直後、徐脈。
「アトロピン入れて」
緊張が走る。
皮下を連続でよせるために、アンカーを一糸かける。
早くアトロピン効け!
気になってモニターに眼を向ける。
そこで心電図フラット。
「来た!」
舞ちゃんがドレープの下に手を突っ込み、すぐに心臓を圧迫する。
さすが2度目となると手慣れたもの...、なんて余裕あるわけない!
悪夢再来。
わたしの心臓は爆発寸前。
このままホチキスで閉じるか。
いや、それじゃ死腔が出来て開いちゃうからダメ!
もう少し皮下をよせないと。
早く縫合しなきゃと必死に皮下に糸をかけるけど、心臓マッサージをしてるので動いてやり難いったらありゃしない。
「動きました」
モニターに波形が現れた。
「今のうちにホチキス出しといて」
と、舞ちゃんが離れたとたん再び停止。
今度はドレープの上からわたしが心臓を圧迫する。
動け!動け!
すぐに再開。
ひょっとしてこれは徐脈の間隔がすごく開いてるだけなのではないのか?
今度止まったら、少し待ってみるか?
「止まってる時って、SPO2ってどお?」
「大丈夫でした」
「呼吸は?」
「もぞもぞとした波形が出るだけです」
それなら待たない方がいいか...。
そうしてる間にまた停止。
舞ちゃんがマッサージ。
また術野が動いて縫い難い。
「もう、いいですよね。麻酔切ります」
げっ、もう切るのかい?!
ここまで来たなら、慣れない薬をあれこれ追加するよりは懸命な判断だけど、まだ皮下の縫合が半分ほど残ってるぞ。
って、文句言う間に手を動かせ!
真皮に針を通し、次に筋膜にわずかにかけ、そして反対側の真皮に通す。
あと少し。
「動きました」
モニターから心拍の音がし始めた。
最後の結紮。
1回、2回、3回...、5回でいいか。
よし、皮下縫合終了。
続けてホチキスで一気に皮膚を閉じる。
もう、わたしの眼には傷口のわずかな視野しか映っていない。
どれほどの緊張感なんだろ。
こんなのそうあるものじゃないけど、でも、何度か経験してるような気もする。
「終わった...」
術野からモニターに眼を移す。
すると、規則正しい波形が映し出されていた。
いったい、なんなの?!
そのあとしばらくして普通に覚醒。
念の為、留置針を残しておく。
「よかったねぇ。ちゃんと飼い主さんに返すことが出来る」
緊張感が抜けてゆくと同時に、肩から背中にかけて重い痛みを感じた。
「おつかれさまでした」
舞ちゃんが言った。
ほんと、疲れたよ...。
と、安心したのもつかの間。
入院室に移して、しばらくして様子を見てみたら...。
「うげっ、出血してる!」
タオルが血でべっとり。
縫合部分の頭側から出血し、皮下が血腫になって腫れていた。
腫瘍の尾側乳腺は結紮したけど、頭側は電気メスで切っただけだったので、覚醒して血圧が上がったから出血して来たのかもしれない。
ガーゼを縫い付けて圧迫しておけばよかった...、なんて思っても後の祭りである。
急いで診察台に運ぶ。
移動の刺激で皮下に溜まっていた血液が吹き出し、床に点々と落ちた。
また、麻酔かけなきゃいけないのかぁ?
もうかけたくないよ。
血腫上のホチキスを2つほど外してみたものの、皮下をしっかりと縫い過ぎてて血液が出ない。
仕方がないので穿刺して取り出す。
そのあとにガーゼを当てて伸縮包帯を巻いて圧迫。
これでいいかな?
止まってね、お願い。
そして、入院室に戻す。
ふぅ...。
ああ、なんとも表現出来ないほどの疲労感...。
遅い昼食が胃にもたれる...。
夜になって、お迎え。
包帯を確認する。
出血はなさそうだね。
そして、何事もなかったかのように、飼い主さんに連れられて元気よく歩いて診察室を出て行った。
血腫が出来ちゃったから、治るまでにちょっと時間がかかるかもしれないけど。
それにしても、無事に返すことが出来て、ほんとによかった。
もう、2度とイヤだな、こんなこと...、って、2度やったわけだけどさ。
しかし、いったいなんだったのだろう。
前回も今回も、手術の後半で急におかしくなった。
イソフルが合わないのだろうか?
でも、それならもっと早い段階でおかしくならないかな?
見方によっては、前投薬や導入薬が切れた頃におかしくなっているような気もするけど...。
軽いおつむのわたしには、よく分からない...。




