第9話 二人目
柏木郁夫の住所は、三年前の名簿に残っていた。
私鉄で四駅、そこから徒歩十二分。二階建ての木造アパートで、外階段の錆が手すりの下に垂れていた。
二〇三号室。表札はない。
冬坂はチャイムを押した。音は鳴った。返事はなかった。
もう一度押す。同じだった。
ドアの下の隙間から、光は漏れていない。郵便受けを覗くと、空だった。何も溜まっていない。抜かれたばかりの、乾いた匂いがした。
***
「二〇三ね、先週出たよ」
一階の角部屋から出てきた男が言った。管理人ではなく、長く住んでいる住人らしかった。サンダルの片方がつぶれている。
「先週」
「水曜だったかな。夜中にトラック来てさ、うるさくて」
「引っ越し業者ですか」
「いや、軽トラ。二人で運んでた。荷物少なかったよ」
冬坂は二階を見上げた。二〇三の窓は、カーテンもなく、部屋の白い壁がそのまま見えていた。
「柏木さんとは、話をされましたか」
「あんまり。挨拶くらい。夜勤の人だと思ってたね、時間が変だったから」
「変」
「昼に寝て、夕方に出てく。前はもっと普通だったけどさ」
「いつから変わりました」
男は少し考えた。
「去年の秋くらいかなあ」
「それまでは」
「朝出て、夜帰ってきてた。普通の勤めの人だと思ってたよ」
男はサンダルの片方を履き直した。
「まあ、こっちも毎日見てるわけじゃないからね」
***
鵜沢に電話した。三回鳴って出た。
「引き払われています」
「いつ」
「先週の水曜。夜中に、軽トラで」
鵜沢は何か言いかけて、やめた。紙をめくる音がした。
「先週の水曜って、あなたが立会人リスト取った日じゃない」
冬坂は外階段の途中で足を止めた。
「二日後です」
「近いわね」
「近いです」
「どっちが先に動いたのかしらね」
冬坂は答えなかった。答えると、自分たちが追っているのか追われているのかを決めることになる。
「転居先は」
「郵便の転送はかかっていません。管理会社に問い合わせます」
「かけといて。私、いま高裁」
電話が切れた。
冬坂は階段を降りた。降りきったところで振り返り、二〇三の窓をもう一度見た。
白い壁。何もない部屋。
誰かが、この部屋を先に空にしていた。
***
管理会社は、転居先を教えなかった。
電話は三度かけた。一度目は担当が不在で、二度目は折り返しを待たされ、三度目にようやく出た。名乗り、事件番号を伝え、弁護側の鑑定人であることを説明した。担当者の答えは変わらなかった。
保証人の連絡先も、緊急連絡先も、個人情報だと言われた。断り方は丁寧だった。丁寧であることと、通ることは関係がない。
柏木郁夫という名前は、どの窓口でも壁に当たった。資格の状況は非公開。停止処分の記録は非公開。住所も非公開。
制度の中に、この男を置いておく場所がない。
冬坂は駅前の喫茶店に入り、手帳を開いた。分かっていることを書き出す。
窓際の席は埋まっていて、奥の壁際に座った。壁に古い路線図が貼ってある。駅名が二つ、上から白いシールで訂正されていた。
去年の秋、停止処分。生活の時間が変わった。先月二十八日、須賀沼の再生に補助立会として入った。認証が通らないはずの人間が。先週の水曜、部屋を引き払った。夜中に、荷物は少なく。
書いた行を、冬坂は上から順に読み返した。五行ある。どの行も、確かめられた事実だった。確かめられた事実だけを並べると、この男が何をしていたかは何も出てこない。
三年間、同じ課にいた。昼の休憩を取らない人だった。それは事実だが、手帳には書けない。
書き終えて、冬坂は最後の行を見た。
誰が運んだのか。
***
電話が鳴ったのは、その夜だった。
二十一時十分。冬坂は自宅の机にいた。画面に鵜沢の名前が出ていた。
「先生」
「今どこ」
「自宅です」
鵜沢の息の音が聞こえた。歩いている音ではない。座っていて、それでも息が上がっている音だった。
「柏木郁夫、見つかった」
冬坂は椅子から動かなかった。
「どこで」
「西の埠頭。倉庫の裏。夕方、通報があったって」
窓の外は暗かった。カーテンを閉めていない。ガラスに部屋が映り、その中に自分が座っているのが見えた。
「先生」
「何」
「生きていますか」
鵜沢は少し黙った。それは計算している沈黙ではなかった。
「死んでる」
冬坂は目を閉じなかった。
「後頭部ですか」
「そこまでは聞いてない。知り合いから流れてきただけだから」
「須賀沼は、後頭部の左寄りでした」
電話の向こうで、紙をめくる音が止まった。
「発見は何時ですか」
「十七時半。通報が」
冬坂は机の上の手帳を引き寄せた。開いたページには、今日書いた行がまだ残っている。
五行の下に、余白があった。
冬坂はペンを取らなかった。
「先生。四十八時間です」
「……ああ」
「明後日の十七時半が上限です。死亡は発見より前ですから、実際にはそれより短い」
電話の向こうで、鵜沢が立ち上がる音がした。椅子が床を擦る音。それから、コートを取る音。
「明日の朝いちで、申立ての準備するわ。柏木の遺族を探して」
「探します」
「先生」
鵜沢が言った。冬坂を、そう呼んだ。
「何でしょうか」
「今回は、映ってるかもしれないわ」
冬坂は答えなかった。
答えなかったのは、言葉が出なかったからではない。映っているかもしれない、という言い方に、自分が反応したのが分かったからだった。
反応したこと自体は、悪くない。悪くないはずだった。
ガラスに映った部屋の中で、机の上の手帳だけが白かった。




