第8話 拒否権
須賀沼敬一の妹は、電話に出た。
鵜沢がかけ、名乗り、要件を三十秒で説明した。冬坂は横で聞いていた。相手の声は聞こえない。鵜沢の相槌だけが続き、それが二度、三度と短くなっていった。
最初の相槌は、語尾が上がっていた。二度目は平らだった。最後の相槌は、上がらなかった。
鵜沢は途中で一度、ペンを取った。何も書かずに、また置いた。
「……はい。分かりました。失礼します」
鵜沢は受話器を置いた。置く音が、いつもより静かだった。
「会わないって」
「理由は」
「話すことはない、って。それだけ」
鵜沢はペンの尻でデスクを二回叩き、途中でやめた。
「代理人を立ててもらえないかって訊いたら、切られたわ」
「怒っていましたか」
「怒ってない。それが厄介なの」
冬坂は、その言い方を覚えておいた。怒っている相手には、次にかける口実がある。
***
「制度を確認させてください」冬坂は言った。「再生の前に、遺族には拒否権があります」
「再生拒否権ね。あるわよ」
「行使の要件は」
「要件なんてないの。行使するって言えば、それで通る」鵜沢は書棚から冊子を抜いた。付箋の位置が前と違っていた。「条文にはこう書いてある。遺族は、再生の実施を拒むことができる。以上」
「理由は」
「問われない。書く欄すらないわ」
鵜沢は該当の頁を開いて、机の上を滑らせた。冬坂は覗き込んだ。条文は二行しかなかった。前後の条文はどれも十行を超えているのに、そこだけが短い。
その二行の下に、頁の三分の二ほどの余白があった。次の条文は、次の頁から始まっている。組版の都合ではない。この条にだけ、続きがないのだった。
冬坂は指で頁を押さえた。押さえる必要はなかった。冊子は開いたままになる綴じ方だった。
「行使したことは記録に残りますか」
「残る。日付と、誰が行使したかは記録される。理由だけが空白」
冬坂は少し黙った。
「不思議な設計です」
「不思議?」
「行使を記録に残すのなら、後から検証する意図があるはずです。理由が空白では、検証できません」
「されたくないんでしょ」鵜沢は冊子を閉じた。「遺族に理由を訊いたら、遺族が何を隠したいかを訊くことになる。制度がそれをやると、まずいのよ」
「まずい」
「殺した人間が遺族のこともあるからね」
冬坂はうなずかなかった。うなずける話ではなかった。
三年間、この条文の下で働いていた。行使されたことは二度あった。二度とも、その日の予定が消えただけだった。理由を考えたことはない。考える欄が、どこにもなかった。
***
行使の記録は、開示請求で取れた。三日かかった。
一日目は、書式が違うと言われて出し直した。二日目は、事件番号の記載欄に押印が要るかどうかで窓口が確認に立ち、七分待たされた。三日目の午後に、封筒が事務所へ届いた。
三日のあいだ、冬坂は現場の図面を三度引き直している。距離は変わらなかった。引き直したのは、待っているあいだに手を動かす場所が他になかったからだ。
三度目は、映像から起こした。実況見分の図を見ずに、記憶だけで壁とシャッターの位置を引く。それから調書の図と重ねた。ずれは、ほとんどなかった。
ずれがないことを確かめても、何も進まない。それでも冬坂は、三枚を重ねたまま、しばらく机に置いていた。
薄い紙が二枚。一枚目に、須賀沼敬一の事件番号と、対象者の氏名。二枚目に、行使の記録。
冬坂は二枚目を読み、それから一枚目に戻り、また二枚目を読んだ。
「先生」
「なに」
「拒否権が、行使されています」
鵜沢がパンを持ったまま顔を上げた。
「されてないでしょ。再生されてるんだから」
「二十四日に、行使されています。行使者は妹さんです」
鵜沢はパンを置いた。
「二十四日って、死んだ次の日じゃない」
「はい。トリアージが事件性なしと判定したのと、同じ日です」
「……順番は」
冬坂は日付を指でなぞらなかった。目だけで確かめた。
「拒否権の行使が午前。トリアージの判定が午後です」
鵜沢は椅子を回して、窓のほうを向いた。ブラインドの隙間から夕方の光が入り、机の端に細い線を引いていた。
彼女は光のほうを向いたまま話した。冬坂からは、髪の輪郭だけが明るく見えた。
「拒否権を使ったら、その時点で再生は終わりよ。事件性の判定を待つまでもない」
「はい」
「なのに、そのあとトリアージが判定してる」
「判定は自動です。拒否権とは別に走ります」
「で、二日後に、その妹が異議を出した」
「二十六日です」
「拒否権は」
「二十五日付で、撤回されています」
鵜沢は窓を向いたまま、しばらく動かなかった。
ブラインドの線が、机の上を少しずつ移動していた。彼女が黙っているあいだに、線は書類の縁まで届いた。
「一日で気が変わったわけね」
「記録の上では」
***
冬坂は紙をもう一度読んだ。三度目だった。
拒否権の行使、二十四日午前。撤回、二十五日。異議申立て、二十六日。再判定、二十七日。執行、二十八日。
五日間で、一人の人間が正反対のことを二度している。
兄が死んだ翌日から、五日連続で、市外から窓口へ通ったことになる。あるいは、通わずに済む手続きもあったのかもしれない。それは記録から分からなかった。
記録に残るのは、日付と、行為の名前だけだった。窓口へ来たのか、郵送だったのか、誰かに付き添われていたのか、そういうことは書かれない。書く欄がない。
冬坂は、五つの日付を一枚の紙に書き写した。書き写しても、間隔は変わらない。一日、一日、一日、一日。全部が連続している。
連続しているということは、待っていないということだった。この五日間、この人は毎日、何かを決めている。
「先生。もうひとつあります」
「まだあるの」
「保存措置の日付です」
冬坂は前に取った写しを重ねた。二枚の紙の日付の欄が、同じ高さに来るように置いた。
「保存措置は、二十四日に取られています」
「事件性なしの判定と同じ日」
「同じ日です。そして、拒否権が行使された日でもあります」
鵜沢が椅子を戻した。回転の音が短く鳴った。
「待って。整理させて」
彼女は指を三本立てた。
「二十四日の午前、妹が再生を拒否した。同じ日の午後、機械が事件性なしと判定した。この時点で、この事件は終わってる。誰の目にも」
「はい」
「でも、同じ日に、誰かが遺体を保存した」
「はい」
「再生する予定なんかないのに」
冬坂は答えなかった。
答えは一つしかなかったが、それを言葉にすると、別のものになってしまう気がした。
「それって」鵜沢が言った。「誰かが、あとで再生することになるって知ってたってこと?」
窓の外で、隣のビルの室外機が回っていた。この事務所で、何度も聞いた音だった。
「知っていた、あるいは」冬坂は言葉を選び直した。「そうなるようにした」
鵜沢はパンの袋を握った。潰れる音がした。彼女はそれに気づいて、袋を机に置き、皺を伸ばした。
伸ばしても戻らなかった。彼女はそれを見て、手を離した。
「妹さん、会ってくれないのよね」
「会いません」
「話すことはない、って言ってたわ」
鵜沢は立ち上がり、コートを取った。着てから、袖を直した。
入口の傘立てには、まだ骨の折れた傘が入っていた。雨は二日前に上がっている。
「あれね。話すことがないんじゃなくて、話せないことがあるほうね」




