第10話 行使
柏木郁夫に、法定の遺族はいなかった。
両親は他界。兄弟なし。婚姻歴なし。子はなし。翌朝までに鵜沢が調べ上げたのは、そこまでだった。
彼女は一睡もしていない顔をしていなかった。ただ、コートの肩に雨の跡が乾いて残っていた。夜のあいだに一度、外へ出ている。
「いないなら、拒否権を行使する人間もいないってこと?」
「いえ」冬坂は言った。「縁故者の登録があります」
「なにそれ」
「法定の遺族がいない場合に備えて、技師は生前に一名を登録できます。再生に関する意思を代行する権利を持ちます」
鵜沢はコートも脱がずに書類を捲っていた。
「技師だけの制度?」
「技師と、医療従事者と、警察官です。職務上、自分の死体が再生される可能性が高い職種に認められています」
「行き届いてるわね」
「制度が最初に守るのは、制度の内側にいる人間です」
冬坂は、自分が登録していないことを言わなかった。三年前、その欄は空のまま返上した。書く相手がいなかったのではない。書く必要を感じなかった。
登録の様式は、氏名と、続柄と、連絡先だけの一枚だった。続柄の欄には例が印刷されている。友人、同僚、そのほか。そのほか、という選択肢があることを、冬坂はそのとき初めて知った。
***
九時に再生記録課へ行った。柏木の再生の申立てを出すためだった。
窓口には皆瀬がいなかった。若い職員が対応し、書式を確認し、受理印を押した。それだけで五分で終わった。
印は二度押された。一度目が薄かったからだ。職員は台に押しつけて、もう一度押した。
二つの印は完全には重ならなかった。輪郭が少しずれて、字が太く見えた。職員はそれを見て、指で紙を撫でてから、次の書類に移った。
「早いですね」
「事件性ありの判定が出ておりますので」職員が言った。「あとは意思の確認だけです」
「縁故者の登録は」
「ございます」
「連絡は」
「昨夜のうちに」
冬坂は鞄の持ち手を握り直した。
「回答は」
「本日の午前中に、こちらへお越しになる予定です」
***
待合は二階の廊下にあった。長椅子が三つ並び、壁に制度の説明が掲示されている。
掲示は古かった。角が丸くなり、下の隅が一箇所めくれている。誰も読まないから貼り替えられないのか、貼り替える必要がないほど制度が変わっていないのか、どちらでもあり得た。
拒否権について。行使は書面によること。行使後の撤回は一度に限り認められること。理由の記載を要しないこと。
三つの箇条は、同じ大きさの活字で並んでいた。どれが重いかは、書き方からは分からない。
冬坂はそれを読み、鵜沢の隣に座った。
一時間近くを、そこで過ごした。
最初の二十分は、掲示を三度読んだ。三度目に、下の隅のめくれた部分の裏に、前の掲示の紙が残っているのに気づいた。角だけが白い。何が書いてあったかは分からない。
次の二十分は、廊下を見ていた。人が七人通った。うち四人は職員で、同じ方向へ歩いていった。二人は書類を持っていて、一人は何も持っていなかった。何も持っていない職員が、いちばん急いでいた。
冬坂は、それを数えている自分に気づいた。数えても意味はない。ただ、待つあいだにできることが、それしかなかった。
「先生。加工の話をしてもいいですか」
「なに、いま」
「待つ時間があります」
鵜沢は肩をすくめた。
「どうぞ」
「再生映像が加工されている、という主張は、過去に何度も出ています」
「聞いたことある。全部負けてるでしょ」
「負けています。ただ、負け方が二種類あります」
冬坂は膝の上で手を組んだ。
「一つは、加工の証拠がないという負け方。もう一つは、加工が技術的に不可能だという負け方です」
「違うの?」
「まったく違います」冬坂は言った。「前者は、証拠を見つければ勝てます。後者は、勝てません」
「で、判例はどっち」
「初期の三件は前者でした。八年前の判決から、後者に変わっています」
「何があったの」
「再生記録課が、封印の仕組みを裁判所に説明しました。読み出しと同時に封をする。封が破られれば記録に残る。以後、加工の主張は技術的に不可能なものとして扱われています」
鵜沢はしばらく黙っていた。廊下の突き当たりで、誰かが自動販売機の釣り銭を取る音がした。
硬貨が落ちる音が三度した。取り出し口を押さえる金属の音が続いて、それから足音が遠ざかった。
「じゃあ、その説明が正しいかどうかは、誰が確かめたの」
冬坂は答えなかった。
答えられなかったのではない。答えが「誰も」であることを、この場で口に出す意味がなかった。
冬坂自身も、確かめたことがなかった。封をする手順は、機材が自動でやる。技師は封印の番号を書き写すだけだ。三年間、その番号が何と照合されるのかを、一度も訊かなかった。
廊下の突き当たりで、自動扉が開く音がした。
***
女が入ってきた。
冬坂の位置からは、逆光になっていた。廊下の窓が背後にあり、輪郭だけが黒く見えた。
黒っぽいコート。肩に届かない髪。手には何も持っていない。鞄も、書類も。
女は受付へまっすぐ歩いた。迷わなかった。場所を知っている歩き方だった。
この庁舎は、初めて来ると必ず一階の総合案内で止まる。二階の窓口は案内板にも出ていない。
足音は聞こえなかった。床は硬い樹脂で、たいていの靴は音を立てる。冬坂は自分が入ってきたときのことを思い出した。あのときは、聞こえていた。
職員が立ち上がり、書類を出す。女は立ったまま、それに目を通した。座らなかった。椅子は横にあったのに、座らなかった。
冬坂は、その姿勢を見た。
ペンを受け取る。書く。二行ほど。それから書類を返す。
三十秒もかからなかった。
書き終えてから、女はペンを職員の側へ戻した。置いたのではなく、向きを変えて渡していた。
女は振り返った。
一瞬、顔がこちらを向いた。窓の光が横から入り、輪郭が消えた。年齢は分からない。三十前後だろうか。
冬坂は立ち上がりかけた。
女は目を逸らさなかった。逸らさずに、そのまま自動扉のほうへ歩いていった。
扉が開き、閉じた。
***
「行使されました」
職員が言った。
鵜沢が立ち上がった。
「理由は」
「記載を要しません」
「聞いてないわ。書いてあったかどうかを訊いてるの」
職員は書面を見た。
「空欄です」
鵜沢は何も言わなかった。それから、長椅子の背に手をついた。
「柏木の映像は」
「取得されません」
「四十八時間、あるんですけど」
「拒否権の行使は、期限とは関係がありません」
鵜沢はゆっくり息を吐いた。
「分かりました」
それだけ言って、彼女は歩き出した。冬坂は動かなかった。
「先生」鵜沢が振り返る。「行くわよ」
「はい」
冬坂は立ち上がった。長椅子の座面が、身体の形にわずかに凹んでいた。
自分がそこに一時間近く座っていたことを、その凹みで知った。
***
庁舎を出た。空は白かった。
「これで、映像はもうないわけね」
「ありません」
「須賀沼のは犯人が映ってない。柏木のは、そもそも取れない」
「はい」
「私たち、絶対証拠がある時代に、絶対証拠なしで戦うのね」
鵜沢は歩きながら笑った。笑い方に力がなかった。
冬坂は歩道の先を見ていた。人が流れている。誰も振り返らない。
「先生」
「なに」
「さっきの方に、見覚えがあります」
鵜沢が足を止めた。
「柏木の縁故者?」
「はい」
「どこで」
冬坂は答えようとして、答えられなかった。
顔ははっきり見ていない。声も聞いていない。名前も知らない。
覚えているのは、姿勢だった。
椅子が横にあるのに、座らなかった。書類を立ったまま読み、立ったまま書いた。
冬坂は、その姿勢を、前にどこかで見ている。




