第11話 接見
拘置所は、川を渡った先にあった。
外から見ると、ただの大きな建物だった。看板はない。塀の上に有刺鉄線もない。ただ、窓が細かった。細くて、等間隔で、どの階も同じ数だけ並んでいた。
周りは住宅地だった。道の向かいに幼稚園があり、送迎のバスが停まっている。塀の高さは、そこからだと三階建ての壁にしか見えないだろう。
塀に沿って、片側だけに植え込みがあった。刈り込みの高さが揃っている。誰かが定期的に手を入れている高さだった。
受付で荷物を預けた。携帯、鍵、ペン。返されたのは番号札と、紙が一枚だけだった。
預けたものは透明の袋に入れられ、袋の口が結ばれた。結び目の位置まで決まっているらしく、職員の手は迷わなかった。
「補助者で通してあるから」
鵜沢が言った。コートは着たままだった。
「余計なこと言わないでね」
「何が余計ですか」
「訊かれてないことに答えるの、あなたの癖でしょ」
冬坂は答えなかった。心当たりがなかったわけではない。
待合には十人ほどいた。半分は弁護士らしく、書類の入った鞄を膝に置いている。残りは家族だろう。若い女が一人、封筒を両手で持ったまま、呼ばれるのを待っていた。
封筒の端が柔らかくなっていた。何度も持ち替えた紙の角の形だった。呼ばれるまでのあいだに、彼女はそれを一度も膝に置かなかった。
番号を待ちながら、冬坂は一つのことに気づいた。
被告人と会うのは、これが初めてだった。
三年間、記録を読み、映像を読み、鑑定書を書いた。そのどこにも、相手に会う工程はなかった。会う必要がない。会えば判断が濁る、と教わったわけでもない。単に、日程に入っていなかった。
三年前の被告人の顔を、冬坂は法廷で一度だけ見ている。あれは会ったことにならない。
***
接見室は、三畳ほどだった。
アクリル板が部屋を二つに割っている。板の下に、書類を通すための隙間が細く開いていた。こちら側に椅子が二つ。向こう側に一つ。
扉が閉まると、待合の音が消えた。廊下の足音も、番号を呼ぶ声も届かない。壁は何も貼られていない。音の逃げ場がないので、椅子を引く音だけが大きく聞こえた。
冬坂は座り、板を見た。
傷が多かった。細い線が何本も、同じ高さに走っている。爪でつけたものか、指輪でこすれたものか。誰かが何度も、この高さに手を置いたのだと分かった。
板の下の隙間には、紙の繊維が挟まっていた。誰かが通した書類の、端の一部だった。
扉が開いた。
郷田実は、思っていたより小さかった。五十一という数字と、顔が合っていない。もっと上に見えた。
彼は椅子に座り、両手を膝の上に置いた。そのまま動かさなかった。最初からそこにあった、という置き方だった。
「先生」
郷田は言った。冬坂のほうを見ていた。
「鑑定人です。弁護士ではありません」
「あ、はい」
「冬坂と申します」
「先生、どうも」
訂正は届かなかった。郷田は同じ言い方に戻った。悪意はなかった。この人にとって、こちら側に座る人間は全部そう呼ぶものらしかった。
***
「お伝えすることがあります」
冬坂は言った。
「柏木郁夫という方が亡くなりました。須賀沼さんの再生に立ち会った一人です。この方の再生映像は、取得されません」
「はあ」
「ご遺族の代わりの方が、拒否権を行使されました」
郷田は板の傷を見ていた。冬坂の顔ではなく、その少し下を。
「それは」
言葉が切れた。続きが出るまでに、間があった。
「それは、こっちに悪いんですか」
「有利でも不利でもありません」
「そうですか」
「もう一人分の映像があれば、そこに何か映っていたかもしれない。その可能性がなくなりました」
「なるほど」
郷田はうなずいた。分かった顔ではなかった。うなずくことで話を先へ送る、という動作だった。
鵜沢が横で腕時計を見た。三十分と決められている。彼女はメモを取っていない。取らないのだと、あとで知った。
***
「郷田さん」冬坂は言った。「一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「須賀沼さんは、どういう方でしたか」
郷田の視線が、板の傷から少しだけ上がった。それから、また下がった。
「どういう、って」
「人柄です」
「まあ、須賀沼さんは、商売の人ですから」
「商売の人」
「そういう感じの、方でしたね」
冬坂は待った。郷田は続けなかった。続けない、という選択が終わったあとの静かさだった。
「お付き合いは長かったと」
「十年くらいですか。でも、そんなに、深い付き合いってわけでも」
「取引はされていましたね」
「してました。してましたけど、須賀沼さんとは、大きい話じゃないんです。細かいのを、ぽつぽつと」
郷田は「須賀沼さん」と言った。二度とも、そう言った。
冬坂はそれを聞いていた。
自分を殺人で起訴させた相手である。少なくとも、その死によってここに座っている。それでもこの人は、敬称を落とさない。
律儀な人なのだろう、と思った。
思ってから、冬坂はその判断を保留した。理由はなかった。ただ、置いておいた。
「最後に会われたのは」
「先月の……何日でしたかね。前の月かもしれないです」
「事務所へは」
「行きます。表から。中で話して、帰ります」
「どのくらいの頻度で」
「そんなには」
郷田は言った。それきりだった。
冬坂は数字を出さなかった。入退館記録には月に二度と残っている。突き合わせれば、この人は答えを変えるだろう。変えさせても、得るものがない。
「裏手に回られたことは」
「ないです」郷田は初めて言い切った。「裏は、行かないです」
言い切ったあとで、彼は少し姿勢を戻した。強く言ったことを、自分で引いたように見えた。
***
「先生」
鵜沢が言った。冬坂にではなく、郷田に向かって。
「二十一時二分の防犯カメラ、あれについて検察は何度でも訊いてくるわ。同じことを訊かれたら、同じことを答えて。増やさないで」
「増やさない」
「思い出したことを足すのが、いちばん危ないの。前と違うって言われるから」
「はい」
「前に言ったのと違うことは、私に先に言って。私が判断する」
郷田は膝の上の手を、一度だけ握った。すぐに開いた。
「あの」
「なに」
「仕事の、電話なんですけど」
鵜沢の顔が動かなかった。慣れているのだと分かった。
「取引先ですか」
「三軒あって。こっちから連絡しないと、たぶん、もう」
「差入れの手紙に書いて。私が出すから」
「先生から、直接は」
「弁護人が取引先に電話するのは、あんまり良くないの」
「そうですか」
郷田はうなずいた。今度は、送るためのうなずきではなかった。
「あと、家のほうは」
「奥様には、先週お会いしたわ」
「そうですか」
それ以上、郷田は訊かなかった。訊けば何か聞けたはずだった。訊かないことを選んだのだと、冬坂には見えた。
***
時間になった。扉の向こうで、職員が立ち上がる気配がした。
郷田は椅子を引かなかった。座ったまま、板のこちら側を見た。冬坂の顔を、初めてまっすぐ見た。
「先生」
「はい」
「これ、いつ終わりますか」
冬坂は一拍置いた。
「公判の期日は決まっています。ですが、そこで終わるとは限りません」
「終わらないこともあるんですね」
「あります」
「そうですか」
郷田は立ち上がった。両手は、最後まで膝の高さにあった。
扉が閉まる音がして、向こう側の椅子だけが残った。
冬坂はアクリル板の傷を見ていた。細い線が、同じ高さに走っている。
誰かが何度も、この高さに手を置いたのだ。置いて、板の向こうの人間に、届かないまま話していた。
三十分だった。そのあいだに得た事実は、三つか四つしかない。取引は十年。頻度は曖昧。裏へは行かない。それだけだ。
記録を読めば、同じことが十分で分かる。むしろ記録のほうが正確だ。日付も、回数も、時刻も出ている。
それでも、記録には出ないものがあった。この人が、須賀沼を敬称で呼ぶこと。強く言ったあとで姿勢を戻すこと。家のことを訊かないこと。
どれも、立証には使えない。
使えないものを、いま自分は三つ持って帰る。
受付で袋を返された。結び目は解かれていた。携帯には着信がなく、鍵の位置も預けたときのままだった。
外へ出ると、幼稚園のバスはもういなかった。




