第12話 判例
判例を洗うのに、四日かかった。
裁判例のデータベースは、弁護士会の端末から引ける。鵜沢の事務所には契約がなかった。彼女は「年に一度しか使わないものに金を払わない主義なの」と言って、冬坂を会館の三階へ行かせた。
閲覧室には机が六つあり、埋まっていたのは一つだけだった。冬坂は窓から遠い席を選んだ。日が当たると画面が見えなくなる。
端末は古く、起動に二分かかった。その二分のあいだ、画面には製造元の名前だけが出ている。三年前、庁舎の端末も同じ画面だった。買い替えの周期が同じなのだろう。
検索の語を決めるのに、半日を使った。再生映像、証拠能力、加工。三つの語の組み合わせを変えるたび、件数が三桁動いた。
語を一つ足すと二千件が四百件になり、順序を入れ替えるだけで三百件に減った。減った二千数百件のどこに何があったのかは、もう分からない。冬坂は語を戻し、もう一度同じ数字が出ることを確かめてから先へ進んだ。
二日目に、絞り込む条件が分かった。
***
三日目と四日目は、読むだけだった。
二百六件のうち、二百件近くは短い。争点として一行だけ触れられ、あとは別の話になっている。再生映像の証拠能力は、主張はされるが、判断されない。判断されないまま、判決は次の段落へ進む。
冬坂は、その一行だけを拾って読んだ。書き方はどれも似ていた。当該映像の証拠能力に関する弁護人の主張は、採用できない。理由を書いた判決と、書かなかった判決がある。書いた場合も、二文で終わっている。
三日目の午後、同じ言い回しが四件続いた。書式ではない。判決文に書式はない。それでも、同じ言葉が別の裁判所から出ている。
誰かが最初にそう書いて、後の人がそれを読んだのだろうと思った。読んで、使えると判断した。冬坂はその判断を責めることができなかった。自分も鑑定書の文面を、前の事案から借りたことがある。
四日目は、九件だけを読んだ。弁護側が通った九件である。
どれも、映像の中身には触れていない。機材の記録が残っていない。立会人の資格が確認できない。期限を数日過ぎている。同意書の署名が本人のものか疑わしい。
九件とも、負けた側は制度だった。誤りを認めたのではなく、手続きの記載が足りなかった。それだけだ。
夕方、冬坂は端末の履歴を消した。消す必要はなかったが、次に使う人が自分の検索語を見られる状態にしておきたくなかった。
閲覧室の一つだけ埋まっていた席の主は、四日とも同じ人だった。互いに名乗らなかった。四日目の夕方、その人が先に席を立ち、椅子を戻していった。冬坂も同じようにした。
***
再生映像の証拠能力が争われた事件は、十七年で二百六件。うち弁護側の主張が通ったのは九件。九件の内訳を、冬坂は表にした。
機材の不具合が三件。立会人の欠格が二件。期限の徒過が二件。遺族の同意手続の瑕疵が二件。
「映像の中身で勝ったのは、ゼロ」
鵜沢が表を指で押さえた。事務所の机の上で、印刷した紙が四枚に分かれている。彼女はそれを一枚ずつ持ち上げず、指だけを滑らせて読んだ。
「ゼロです」
「勝ってるのは全部、手続きの穴」
「そうなります」
鵜沢は椅子を回して、書棚のほうを向いた。それから戻ってきた。戻る途中で、机の端の菓子パンの袋を一度見た。手は伸ばさなかった。
「じゃあ、うちも手続きでいくべきよね。柏木の立会は、資格停止中だった疑いがある。立会人の欠格。過去に二件、通ってる」
「疑いです。証明できていません」
「証明するのよ、これから」
冬坂は表を見ていた。九件の欄。二百六件の分母。
四日かけて分かったのは、この分数だけだった。二百六分の九。そのうち中身で勝った例が、ゼロ。
三年前、自分はこの分母の側にいた。証言する側にいて、この数字を知らなかった。知る必要がなかったからだ。
「先生。私は、中身で争いたい」
鵜沢の手が止まった。
「なんて?」
「映像の中身です。あの三十秒が何を意味するのかを、法廷で問いたい」
「ゼロなのよ」
「ゼロです。ですが、判決が映像の意味まで判断した例もありません」
事務所が静かになった。電話も鳴らなかった。
隣のビルの室外機が、窓の外で回っていた。それだけが聞こえていた。
鵜沢はペンを置いた。置き方が、いつもより丁寧だった。
***
「先生。ちょっと座り直していい?」
「どうぞ」
鵜沢は椅子の位置を十センチほど動かした。机との角度が変わっただけだった。それで何かが変わるとは思えなかったが、彼女は変わったものとして話しはじめた。
「あなた、郷田さんの弁護のためにここにいるのよね」
冬坂は答えなかった。
「答えて」
「……そのつもりです」
「つもり、じゃなくて」鵜沢は身を乗り出した。「勝率の高い道と、あなたが試したい道があって、あなたは後者を選ぼうとしてる。それ、依頼人のためじゃないでしょ」
「両立します」
「しないわよ。時間は有限なの」
鵜沢は指を二本立てた。
「手続きで攻めれば、柏木の資格を証明するだけでいい。中身で攻めるなら、映像の解釈をゼロから立てて、十七年の判例をひっくり返さないといけない。公判まであと二か月」
冬坂は、両手を膝の上で組んだ。それは自分の癖ではなかった。三年前、上司がそうしていたのを覚えている。
あの人は、部下の話を聞くときにいつもそうした。組んだ手の親指だけを動かして、最後まで黙って聞いた。聞いてから、たいていは何も変えなかった。
「先生。手続きで勝つと、映像はそのまま残ります」
「残るわよ。それが何」
「郷田さんは無罪になります。ですが、あの映像を読み違えたということは、誰も認めません」
「認めなくても、無罪は無罪でしょ」
「そうです」
「じゃあ何が不満なの」
冬坂は答えなかった。
鵜沢はしばらく待ってから、椅子の背にもたれた。
「あなた、自分の話をしてるでしょ」
冬坂は組んでいた手をほどいた。ほどいてから、それが答えになっていることに気づいた。
***
その夜、冬坂は須賀沼の周辺資料を読み直した。
鵜沢が集めたものだった。事業の登記、取引先の一覧、賃貸の契約書、そして事務所の入退館記録。須賀沼は自分の事務所に電子錠をつけていて、開閉のたびに名前が記録される仕様だった。
几帳面な男だ、と思った。金を貸す商売で、誰がいつ来たかを残しておきたい人間は多い。だがそれを三年分も保存している例は、そう多くない。
記録は三年分あった。冬坂は最後の一年を印刷し、机に広げた。A4で十四枚になった。日付の順に並べ、端を揃える。
部屋の明かりは、机の上だけ点けた。台所のほうは暗いままにしてある。一人で住むには広すぎる部屋だが、三年前に引っ越す理由もなかった。
流しには、朝に使った皿が一枚だけ伏せてある。乾いていた。冷蔵庫が一度うなって、また静かになった。
名前は少ない。須賀沼本人がほとんどで、あとは取引先が数名。郷田実の名も、月に二度ほど出てくる。
冬坂は郷田の名前のところで、一度指を止めた。
拘置所で見た男が、この事務所に月に二度入っていた。表から入って、中で話して、帰った。本人がそう言った。記録もそうなっている。矛盾はない。
矛盾はないが、細かいのをぽつぽつと、という言い方と、月に二度という頻度は、頭の中でうまく重ならなかった。
冬坂はそれを、確かめようのないものとして置いた。
置いた、という言葉を、このときは何とも思わなかった。
そして、もう一つ。
週に三度から四度。夕方に入り、夜に出る。曜日は不定期。名前は二文字。
芦原。
冬坂は、印刷した紙を持ち上げた。
持ち上げてから、そうする必要がなかったことに気づいた。紙は机の上にあり、明かりも足りていた。
それでも、目の高さまで持ち上げていた。
芦原。
冬坂はその二文字を見ていた。
三年前の判決文の、被告人の欄に印字されていた二文字だった。




