第13話 辞めた理由
冬坂は、翌朝いちばんで事務所へ行った。
八時二十分だった。ビルの一階の不動産屋はまだ開いていない。ガラスの内側に、貸室の条件を書いた紙が並んでいる。日に焼けて、間取り図の線が薄くなっているものが半分ほどあった。
エレベーターは四階で止まったままで、降りてくるのに時間がかかった。階数表示の数字が一つずつ落ちてくる。三、二、一。扉が開くまでに、また少し間があった。
四階の廊下は、夕方より暗かった。窓が東を向いていないので、朝は光が回らない。
鵜沢はまだコートを着ていなかった。これから着るところだったらしく、椅子の背から取り上げた姿勢のまま、冬坂を見た。
「早いわね」
「話があります」
「法廷が十時なんだけど」
「五分で終わります」
鵜沢はコートを椅子に戻した。座らなかった。冬坂も立ったままだった。
「三年前の事件の話です」
「あなたが読み違えたっていう」
「はい」
冬坂は鞄から一枚出した。判決文の写しだった。昨夜、押入れの箱から出したのではない。三年間、鞄の内側に入れたままだったものだ。折り目が四つついていた。
家に置くと、夜に読むことになる。持ち歩いていれば、鞄を開けたときにしか見ない。三年前、そう決めた。決めた理由は、そのときは自分でも整理できていなかった。
折り目の交差する場所が、薄くなっている。指で押せば破れる厚さだった。冬坂はそこを持たずに、縁を持って差し出した。
「被告人の氏名は、芦原邦彦。当時五十四歳」
鵜沢は紙を受け取り、上から下まで一度で読んだ。読むのが速い。
「傷害致死。工場の休憩室で口論、相手が転倒、頭部を強打」
「はい」
「争点は、突き飛ばしたかどうか」
「はい」
「死者の再生映像に、芦原邦彦が両手を前に出した瞬間が映っていた」
「映っていました」
鵜沢は紙を下げた。
「で、あなたが証言した」
「両手の動きは、押し出す動作と整合すると」
「整合する、ね」冬坂の言い方をそのまま返した。「断定はしてないんだ」
「していません。ですが、法廷では断定と同じように扱われました」
「そうでしょうね」
鵜沢は紙を机に置いた。角は揃えなかった。冬坂はそれを見て、手を出さなかった。
「で、何が違ってたの」
冬坂は一拍置いた。
言葉を選び直したのではなかった。三年間、何度も言い直してきた文があって、それをそのまま出すかどうかを迷った。
結局、そのまま出した。
「あの映像は、押した瞬間ではありませんでした」
***
「二年後に、別件で似た構図が出ました」冬坂は言った。「転倒して、頭を打って、しばらく生きていた事案です。そのとき初めて、映像に写っていた場面と、傷を負った場面が、必ずしも一致しないという議論が出ました」
「一致しないって、どういうこと」
「厳密には、まだ議論です。結論は出ていません」
「あなたの言葉で言って」
冬坂は窓のほうを見た。室外機は止まっていた。朝はまだ動いていない。
「三年前の映像で、芦原邦彦が両手を前に出していたのは、相手を押したからではなく、倒れかけた相手を支えようとしたからかもしれない。そういう読み方が、成立し得ます」
「かもしれない」
「はい」
「どっちなの」
「分かりません」冬坂は言った。「もう分かりません。再生は一度きりです。映像はありますが、そこに写っている手が何をしようとしていたのかを、後から確かめる方法はありません」
鵜沢は何も言わなかった。
「三年前の私は、確かめずに証言しました」
冬坂は、芦原邦彦の顔を思い出そうとした。
思い出せた。法廷で一度だけ見ている。証言台へ向かうとき、被告人席の横を通った。そのとき、あの人はこちらを見ていた。目が合ったかどうかは分からない。冬坂のほうが先に前を向いた。
あれから三年間、一度も会っていない。会う方法もなかった。冬坂が知っているのは、判決文の被告人欄の二文字と、その一瞬の横顔だけだ。
名前と顔を持った人が、自分の書いた一行で刑務所に入り、そこで死んだ。その事実を、冬坂はいつも同じ順序で思い出す。順序を変えられない。
***
「訂正は」
「求めました」
「通らなかった」
「私が返上した後です。返上者の意見は、審査の対象になりません」
「順番が逆じゃない。先に訂正を求めてから辞めるべきでしょ」
「そうです」
冬坂は否定しなかった。鵜沢が言ったことは正しかった。三年前も同じことを、別の人間に言われた。
その人は同期で、いまも認定者名簿に載っている。冬坂は昨日、名簿の中でその名前を見た。見て、何も思わなかったつもりでいた。
同じことを二度、別の人間に言われて、二度とも返す言葉が同じだった。そうです、と。
「芦原さんは、いま」
「服役中に亡くなりました。去年の冬です」
鵜沢は、机の上の判決文をもう一度見た。それから、初めて椅子に座った。コートは椅子の背に残ったままだったので、彼女はそれを身体の下から引き抜いて、膝に置いた。
「あなた、昨日『中身で争いたい』って言ったわね」
「言いました」
「あれ、この人のためでしょ」
冬坂は答えなかった。
「答えなさいよ」
「……分かりません」
「分からないってことはないでしょ」
「本当に分かりません」冬坂は言った。「郷田さんのためだと思っています。ですが、私が同じ形の事件を選んでいないと、言い切れません」
鵜沢は膝の上のコートを見ていた。指で襟の裏を撫でていた。撫でながら聞いていた。
「正直ね」
「正直でいたほうが、先生が判断しやすいと思いました」
「判断ね」
鵜沢は顔を上げた。
「私、あなたを外さないわよ。使えるから」
「はい」
「でも、線は引く。郷田さんの利益と、あなたの過去がぶつかったら、私は郷田さんを取る。毎回」
「そうしてください」
「言われなくてもそうする」
鵜沢は立ち上がり、コートを着た。今度は袖を直さなかった。
「十時だから、行くわ」
彼女は扉のところで一度止まった。何か言うのかと思ったが、鍵の場所を確かめただけだった。
階段を使う音がした。エレベーターを待たなかったらしい。
***
鵜沢が出ていった後、冬坂は判決文の写しを鞄に戻した。
戻す前に、もう一度だけ見た。三年前の日付。芦原邦彦という名前。そして、鑑定人の欄に印字された自分の名前。
紙を折らずに入れた。折り目のついた紙を、それ以上折らないようにした。
二度と同じことはしない、と決めたわけではなかった。決められるなら、三年前に決めていた。何を二度としないのかが、いまだに言葉にならない。断定しないことか。確かめずに書くことか。それとも、確かめる前に手を止めなかったことか。
決められないまま、冬坂は資格を返した。返せば、少なくとも同じ場所には立たない。それだけは確かだった。
入退館記録の紙は、机の上に置いたままだった。芦原、という二文字が、週に三度から四度、須賀沼の事務所に出入りしていた。
邦彦ではない。彼はもう死んでいる。
冬坂は椅子に座った。座ってから、鵜沢がさっきまで座っていた椅子だと気づいたが、動かなかった。座面がまだ温かかった。
窓の外で、室外機が回りはじめた。どこかの部屋で誰かが暖房を入れたのだった。
三年前、映像は正しかった。誤っていたのは、映像に与えた意味だった。
あのとき自分は、写っているものを見て、写っていないものを補った。
冬坂は、須賀沼の三十秒を思い出した。
壁の下の、何もない一角。二度、確かめる動き。誰も映らない路地。
補ってはいけないと分かっている。分かっていて、それでも問いが立った。
あの三十秒も、私は、意味のほうを読み違えているのではないか。




