第14話 時刻
冬坂は、二つの数字を並べた。
一つは第一回公判前整理手続で開示された鑑定書から。死亡推定時刻、二十時四十分から二十一時十分。
もう一つはトリアージの判定書の表紙から。解析基準時刻、二一:〇〇。
紙を二枚、机の上で隣り合わせに置く。書式が違うので、数字の高さが揃わなかった。冬坂は下の紙を少し上げて、行の高さを合わせた。
合わせてから、指を離した。紙は動かなかった。
どちらもおかしくない。二一:〇〇は死亡推定時刻の幅の中にある。何も矛盾していない。
それでも、冬坂は二枚を戻さなかった。
四日のあいだ、二枚はそこに置いてあった。朝に見て、夜にもう一度見た。見るたびに、同じ結論が出た。矛盾していない。
矛盾していないものを四日見続けることに、名前はない。三年前にも一度、同じことをした。あのときは二日でやめた。
***
「解析基準時刻って、何の時刻なの」
鵜沢が訊いた。事務所の午後だった。
「トリアージが解析の起点に置く時刻です」
「死亡時刻じゃなくて?」
「死亡時刻であることが多いです。ただ、そう書いていません」
冬坂は判定書を指した。指先は触れない。
「死亡推定時刻、とは書かれていません。解析基準時刻、と書かれています」
「同じ意味で使ってるだけじゃないの」
「その可能性はあります」
「でも、確かめたい」
「確かめたいです」
鵜沢はペンの尻でデスクを二回叩き、三回目でやめた。
「あなた、それ、何日前から気にしてるの」
「四日です」
「言わなかったのね」
「言うほどのことではないと思っていました」
「それ、いちばん危ない言い方よ」
鵜沢はそれ以上追及しなかった。追及されないほうが、冬坂には残った。
「どこに書いてあるの、その定義」
「一次記録です」
「取れる?」
「取れません」
***
再生記録課の二階へ行った。番号札は十二番だった。
待合の長椅子は前と同じ位置に凹みがあった。冬坂は端に座った。
この日は窓口が二つとも開いていた。それでも十二番まで進むのに時間がかかった。前の番号の男が、書類の綴じ方について長く話していたからだ。声は聞こえたが、内容は分からなかった。話しているのはずっと男のほうだった。
呼ばれた席には皆瀬がいた。冬坂が来ることを知っていたわけではないだろう。だがこの三週間、窓口に出るのは常にこの男だった。
「一次記録の開示をお願いします」
「本件の一次記録につきましては、係属中の案件に係るものとして、開示の対象外となっております」
「解析基準時刻という項目の、定義だけで結構です」
皆瀬は少し間を置いた。急いでいない間だった。
「項目の定義は、一次記録の書式に含まれます。書式そのものが一次記録の一部です」
「書式は非公開ですか」
「係属中の案件に係る限りにおいて、非公開です」
「係属していない案件の書式なら」
「同様です。書式は事案を問わず同一のものを使用しております」
冬坂は自分の指が机の縁を押しているのに気づき、手を引いた。
「管理官」
「はい」
「解析基準時刻は、死亡推定時刻と同じものですか」
皆瀬は冬坂を見た。四十代半ばの、疲れも急ぎもない目だった。
「その質問には、お答えできる立場にありません」
「同じであるとも、違うとも」
「どちらとも申し上げられません」
これまでと同じだった。皆瀬は嘘をつかない。範囲の外へ出ないだけだ。
だが冬坂は、この日、初めて別のことを考えた。
同じであれば、同じだと言えばいい。
言えない理由が「立場」であるなら、立場を作っているのは規定である。規定が、同じであることを言わせないのだとしたら。
冬坂はそこで考えるのをやめた。材料がなかった。
席を立つとき、皆瀬は書類を戻す手を止めなかった。次の番号が呼ばれる音が、背中のほうで鳴った。
***
庁舎の外で待った。四十分。
最初の十分は、門の正面に立っていた。それから、正面では出てくる人間に見られると気づいて、道を渡った。渡った先に街路樹があり、その下は日が当たらない。十二月の午後で、日陰は寒かった。
二十分過ぎたころ、職員が数人出てきた。誰も都築ではなかった。冬坂は顔を確かめてから、目を伏せた。三年前に見た顔が二つあった。向こうは気づかなかった。
門の前には煙草を吸う場所がなく、職員は道を渡った先の駐車場の隅に集まっていた。三人。誰も都築ではなかった。
三人は輪にならず、縦に並んで立っていた。話していない。一人が先に吸い終えて戻り、残りの二人はそのままだった。灰皿は膝の高さのスタンド型で、上の縁が黒く焦げている。
三十五分のところで、冬坂は帰ろうと考えた。考えてから、あと五分だけ待つことにした。五分に理由はなかった。区切りのいい数字だっただけだ。
待ちながら、冬坂は自分が何をしているかを分かっていた。
都築が出てくれば、訊く。訊けば、あの男は答える。答えれば、あの男の側に記録が残る。
三年前、自分は誰にも訊かせなかった。訊かれる前に、自分で照会を取り下げた。いまは逆のことをしている。逆のことをして、それを進歩だと思っている自分が、少し嫌だった。
嫌でも、待った。
都築は出てこなかった。代わりに、冬坂の携帯が鳴った。番号は登録されていない。
「冬坂さん」
「都築」
「あの、公衆電話です。駅の」
背後で自動改札の音がしていた。
「用件を」
「窓口の記録を見ました。一次記録の請求、出しましたよね」
「出した」
「あの」
都築は、そこで一度黙った。冬坂は待った。
「一次記録の書式、僕、毎日書いてます」
「そうか」
「項目、三十七個あるんです」
改札の音が続いていた。誰かが都築の後ろを通ったらしく、声が遠くなり、また戻った。
「冬坂さん。死亡推定時刻の欄って、あります」
「ある」
「別に、あります」
冬坂は、庁舎の壁から背を離した。
「別に?」
「解析基準時刻とは、別の欄です。両方あります。同じ紙の上に」
冬坂は返事をしなかった。
「だから、同じものだったら、欄が二つある意味がなくて」
「都築」
「はい」
「解析基準時刻の欄には、何を書く」
都築の息が、受話器の近くで一度乱れた。
「……意識喪失推定時刻を、書きます」
電話は、そこで切れた。切ったのが都築なのか、時間が来たのかは分からなかった。
冬坂は携帯を持ったまま、少し動かなかった。
この男は、自分より七つ下だ。三年前、機材の前で手順を覚えるのが速くて、覚えたことを人に説明したがった。冬坂は聞いていた。聞いていただけだが、都築はそれを何かだと思ったらしかった。
いま、その何かを使っている。使えると分かっていて、使っている。
***
冬坂は駅前まで歩き、ベンチに座った。座ってから、手帳を出すのに時間がかかった。
意識喪失推定時刻。
三十七の項目の中に、そういう欄がある。冬坂も三年前まで、それを書いていたはずだった。
書いていた。
覚えている。書式の上から十二番目。医師の所見から転記する欄で、多くの事案では死亡推定時刻とほぼ同じ値になる。だから、意識して見たことがなかった。
欄の幅は狭い。四桁の数字を入れると、それでいっぱいになる。隣の欄も同じ幅だった。並んでいるということは、比べられるように作ってあるということだった。
ほぼ同じ。
多くの事案では。
冬坂は手帳を開き、二つの数字を書いた。
死亡推定時刻、二十時四十分から二十一時十分。
意識喪失推定時刻、二十一時〇〇分。
そして、その下に線を引いた。定規はなかった。線は少し曲がった。
もし須賀沼が二十一時ちょうどに意識を失い、その後に死んだのだとすれば、死亡は二十一時から二十一時十分の間になる。
問題はそこではなかった。
問題は、意識を失う前だった。
冬坂は司法解剖の所見を鞄から出した。開いたページはすぐ見つかった。何度も読んでいる。付箋は貼っていない。貼らなくても開く癖が、紙のほうについていた。
頭部の創傷、左後頭部。硬膜下血腫。出血量の記載。
その一行を、冬坂は初めて時間として読んだ。
この出血量に達するまでに、どれだけかかるか。
医師は書いていない。書く必要がなかったからだ。誰も訊かなかったからだ。
冬坂は所見を閉じ、膝の上に置いた。
駅前のロータリーで、バスが一台停まり、扉が開いた。人が降り、また乗った。扉が閉まり、発車した。三十秒ほどだった。
三十秒。
あの映像の三十秒は、二十一時ちょうどに終わっている。
では、殴られたのは、いつだ。




