第15話 三十秒の位置
都築は会わないと言った。
三度目の電話で、ようやく場所を指定してきた。庁舎から二駅離れた、河川敷沿いのファミリーレストラン。夜の十時。窓際ではなく、いちばん奥の席だった。
冬坂が着いたとき、都築はすでに座っていた。ドリンクバーのグラスが三つ並んでいる。中身はどれも残っていた。
三つとも色が違った。飲みかけて別のものを取りに行き、それを繰り返したのだと分かる並び方だった。
「冬坂さん」
「悪かった」
「何がですか」
「電話を三度もかけた」
都築は笑わなかった。指がストローを回していた。
***
「先に言っておきます」都築は言った。「僕、否定しに来ました」
「何を」
「冬坂さんが考えてること」
冬坂は水を一口飲んだ。
「言ってみてくれ」
「映像が、死ぬ直前じゃないかもしれない、って思ってますよね」
「思っている」
「違います」
都築はストローから手を離した。それでも指は動いていた。テーブルの縁を、爪の先で叩いている。
「僕、四百件くらい立ち会ってます。死亡推定時刻と映像の内容が食い違ったことなんて、一度もないです。撃たれた人は撃たれた瞬間が映るし、刺された人は刺した相手が映ります」
「即死の事案だな」
「……ほとんどはそうです」
「即死でない事案は」
都築の指が止まりかけた。だが、また動いた。
「あります。でも、そういうのは、そもそも再生しません」
冬坂はグラスを置いた。
「なぜ」
「意識があるうちに助けを呼んだり、救急車が来たり、病院で死んだりするので。事件性の判定が先に付くんです。目撃者がいるので。再生する必要がない」
「つまり」冬坂は言った。「意識喪失から死亡までに時間がある事案は、再生されずに終わる」
「そうです」
「では、その場合に映像がどこの三十秒になるのかを、確かめた人間はいない」
都築は答えなかった。
冬坂はテーブルの上で、手を組まなかった。組みたくなったが、やめた。
「都築。意識喪失推定時刻の欄には、何を書くと言った」
「意識喪失推定時刻です」
「なぜ、死亡推定時刻の欄と別にある」
「……分からないです」
「書式を作った人間は、区別する必要があると考えたことになる」
「そうかもしれないですけど」
「区別する必要があるのは、どちらかを使うからだ」
都築の指が、テーブルの縁で止まった。
今度は、動かなかった。
***
「解析基準時刻に、意識喪失推定時刻を転記する」冬坂は続けた。「なぜ死亡推定時刻ではなく、そちらを転記する」
「決まりだからです」
「決まりの理由は」
「習ってないです」
「私も習っていない」
冬坂は言った。それは責める言い方にはならなかった。三年間、自分も同じ欄に、同じ数字を、理由を知らずに書いていた。
研修では、書式の埋め方だけを教わる。どこに何を書くか。転記元はどこか。順序を間違えないこと。なぜそう決まっているかを訊く時間は、日程に入っていない。
「都築。四百件のうち、意識喪失推定時刻と死亡推定時刻が違っていた事案は、何件あった」
「……そんなの、見てないです」
「見ていないな」
「見てないです。同じだと思ってたので」
「私もだ」
都築はグラスを引き寄せ、飲まずに戻した。
しばらく、どちらも話さなかった。
厨房のほうで、皿を重ねる音がした。何度か続いて、止まった。壁の時計は十時二十分を指している。都築は一度、それを見た。見てから、何も言わなかった。
冬坂も、急がなかった。ここで急げば、この男は否定の側に戻る。
「冬坂さん」
「何だ」
「もし、映像が意識を失う直前の三十秒だったら」
都築はそこで言葉を切った。切ってから、続けた。
「須賀沼さんの映像は、殴られた直後じゃないってことになります」
「そうなる」
「十数分後です」
冬坂は都築を見た。
「なぜ、そう言った」
都築の顔が、少しだけ変わった。
「……解剖の所見、見たので」
「見たのか」
「昨日。冬坂さんが所見の話をしたときに、気になって。左後頭部の硬膜下血腫、出血量と血腫の厚さから見ると、受傷後もしばらく意識があったと考えられます」
「それは君の推定か」
「所見から置ける幅です。分単位で断定できる数字じゃありません」
都築は、言ってから、両手をテーブルの下に下ろした。
下ろしたあと、彼は一度、上着の袖を引いた。手を出さないための動作に見えた。
否定しに来た人間が、逆算をやってから来ている。冬坂はそれを指摘しなかった。指摘すれば、この男は自分がしたことに気づいてしまう。
***
窓の外は暗かった。河川敷の街灯が等間隔に並び、その向こうは何も見えなかった。
店内は空いていた。四つ離れた席で、店員がおしぼりを畳んでいる。同じ動作を何度も繰り返していた。畳んだものを籠へ入れ、また取る。
冬坂は、頭の中で路地を組み直した。
二十一時より前。誰かが須賀沼を殴る。須賀沼は倒れる。加害者は路地を出る。歩いても十数秒。
その後、しばらく意識がある。
二十一時ちょうど、須賀沼は意識を失う。その直前の三十秒が、映像として残った。
路地には誰もいない。当然だった。加害者はとうに去っている。
冬坂は、六枚の紙を思い出した。あの夜、どう組んでも成立しなかった六つの項目。
一枚目だけを手前に引いたことも、思い出した。あのとき、性質が違うと思った。思って、元へ戻した。
六つとも正しかった。
誤っていたのは、一つ目の読み方だけだった。
「都築」
「はい」
「これは、隠されていたと思うか」
都築はしばらく答えなかった。ドリンクバーの機械が、遠くで氷を落とす音を立てた。
「隠されてるっていうか」
都築は言った。
「誰も、訊かなかっただけじゃないですか」
冬坂は、それにうなずかなかった。うなずけば、何かを済ませてしまう気がした。
「都築。今日のことは」
「言ってません、僕」都築は先に言った。「今日は、何も」
「そうか」
「でも、明日以降は分かんないです」
都築は伝票を取った。冬坂が手を出す前だった。
「僕、たぶんこれ、まずいことやってます」
「そうだな」
「否定しに来たんですよ、ほんとに」
都築は立ち上がった。椅子を戻し、テーブルのグラスを三つとも寄せて、それからもう一度並べ直した。
手は、また動いていた。
***
外へ出ると、風が川から吹いていた。
駐車場に車は三台しかなかった。そのうち一台のエンジンがかかったままで、中に人はいなかった。
冬坂は駐輪場の脇に立ち、鵜沢に電話をかけた。三回鳴って出た。
「こんな時間に何」
「先生。映像は、殴られた直後ではありません」
鵜沢は何も言わなかった。何かを置く音がした。
「後です。須賀沼は、殴られたあともしばらく意識がありました」
「……待って」
「二十一時より前に殴られ、二十一時ちょうどに意識を失った。映像はその直前の三十秒です」
電話の向こうで、椅子が鳴った。
「じゃあ、路地に誰も映ってないのは」
「当たり前です。犯人は、その前に出ています」
鵜沢の声が、少し高くなった。
「郷田さん、二十一時までは」
「飲み屋です」
「二十時三十分から二十一時までよ。証人三人」
「はい」
風が強くなった。冬坂は携帯を持ち替えた。
「先生。郷田さんは、殺していません」
鵜沢は答えなかった。
答えの代わりに、紙をめくる音がした。何枚も、続けて。彼女はもう次のことを考えている。
「で、それで勝てる?」
紙の音は止まらなかった。訊きながら、もう次の書面を探している。
「勝てます」
冬坂は一拍置かなかった。置く必要がなかった。
「先生」
「聞いてるわ」
「ひとつ、問題があります」
「言って」
冬坂は川のほうを見た。街灯の列が、暗い水面に伸びていた。
「須賀沼は、意識を失うまで、何をしていたんでしょうか」




