第16話 動いた理由
三度目に見たとき、映像はまったく別のものになった。
冬坂は事務所のノートパソコンで、須賀沼の三十秒を最初から流した。鵜沢が横から画面を覗いている。椅子を寄せる位置は、一度目と同じだった。
夜。コンクリートの壁。傾いだ視界。
これまでは、殴られた直後の三十秒だと思って見ていた。だからこの傾きは倒れた瞬間の姿勢で、この動きは朦朧とした頭の揺れだった。
いまは違う。
十数分。
この男は、しばらくここにいた。そのあいだ意識があった。そして三十秒後に意識を失う。
「先生」
「なに」
「彼は、助けを呼んでいません」
鵜沢が画面から目を離した。
「携帯は」
「上着の内ポケットにありました。実況見分の写真に写っています」
「発信履歴は」
「二十時十二分の着信を最後に、何もありません」
「着信って、誰から」
「非通知です。二十二秒で切れています」
鵜沢は椅子を回して、また戻した。
「時間があって、電話しなかったのね」
「していません」
「悲鳴は」
「近隣からの通報はありません。事務所の裏で、通りからは十九メートルです。声を出せば届きます」
「隣、飲食店だったわよね」
「二軒あります。片方は営業していました」
鵜沢は何も言わなかった。
「先生。彼は、助かろうとしていません」
***
「痛くて、動けなかったんじゃないの」
「動いています」
冬坂は映像を戻し、七秒の地点で止めた。
止めるのに二度かかった。一度目は八秒を過ぎ、戻して、また合わせた。バーの上で一秒は指の幅より狭い。
「視界の高さが、ここで変わります。地面から二十センチ程度だったものが、十センチほど上がる。上体を起こしています」
「起こせるの、その状態で」
「受傷後もしばらく意識がありました。最初のうちは、もっと動けたはずです」
冬坂は再生を進めた。視界が横へ流れ、壁の下を捉える。
「そして、ここを見ます」
画面には、コンクリートの壁の下端と、古いタイルが映っていた。
何もない。
「先生。実況見分の写真を出していただけますか」
鵜沢は書類の山から封筒を抜いた。抜くとき、山の上の二冊が滑った。彼女は直さなかった。
冬坂は写真を三枚並べ、そのうちの一枚を指した。
三枚は撮影の角度が少しずつ違う。同じ場所を、立つ位置を変えて撮ったものだ。番号が右下に振ってある。三枚とも同じ日の朝で、影の向きが揃っていた。
壁際に、灰色の低い箱が写っている。膝の下ほどの高さ。管理会社の男が「ゴミ扱いで外した」と言ったものだ。持ち上げたら中で音がしなかったので、空だと分かった、とも言っていた。
冬坂は写真と画面を並べた。
しばらく、事務所は静かだった。
「……ないじゃない」鵜沢が言った。「映像のほう、箱がない」
「ありません」
「写真にはある」
「あります。写真は翌朝です」
鵜沢はパンの袋に手を伸ばしかけて、やめた。
「じゃあ、夜のうちに誰かが置いたってこと?」
「置いたか、戻したかです」
***
冬坂はタイルを数えた。
映像の中の壁際。目地の線が三本見える。写真の中の箱は、壁から三枚目のタイルの上に乗っている。
数えるあいだ、鵜沢は口を挟まなかった。冬坂は画面と写真を三度往復し、三度とも同じ数になることを確かめた。
三度目のとき、画面のほうを一度だけ拡大した。拡大すると目地が滲む。滲んだ状態で数えても、線の本数は変わらなかった。
三年前の異議で、自分は四画素という数字を使った。あのときも、拡大して滲むところまで確かめてから言った。同じ手順を、いま自分のために使っている。
「箱の位置は、写真では壁にぴったり寄っています。映像では、その場所にタイルがそのまま見えています」
「元からなかったのかもしれないでしょ。夜のうちに誰かが持ってきた」
「持ってくる理由がありません」冬坂は言った。「あの箱は空でした。配管も繋がっていない。運ぶ意味がない」
「じゃあ」
「元はそこにあって、動かされ、戻された」
鵜沢は指を立てかけて、下ろした。
「動かしたのは須賀沼」
「その可能性が高いと思います」
「戻したのは」
冬坂は答えなかった。
鵜沢は椅子の背にもたれ、天井を見た。今度は長かった。天井には配線の点検口があり、その蓋が半分だけ色が違っていた。彼女はそこを見ているように見えた。
「須賀沼は殴られて、意識を失うまで電話もしないで、箱を動かしたわけね」
「動かして、その場所を二度確かめています」
「なんで」
「箱の下か、後ろに、何かを入れたからです」
鵜沢が身を起こした。
「それ、入れるところは映ってないの」
「映っていません。映像は最後の三十秒だけです。入れたのは、その前の十二分半のどこかです」
鵜沢はそこで、少し黙った。
「十二分半って、長いわね」
「長いです」
「頭割られて、十二分半かけて、何か隠したのよ、その人」
冬坂はうなずかなかった。うなずけば、まだ確かめていないことを認めたことになる。
***
冬坂は所見を開いた。付箋を貼った箇所がある。
「右手の指先に、粉状の付着物。灰色。鉄錆と塗膜片と記載されています」
「箱?」
「箱かもしれません。ですが、断定はできません。現場は雑居ビルの裏で、錆はどこにでもあります」
「あなた、断定しないわね」
「三年前に断定しました」
鵜沢はそれ以上訊かなかった。訊かない代わりに、机の上の写真を一枚だけ裏返した。裏に何もないことを確かめて、また表に戻した。
戻すとき、三枚の順番が入れ替わった。番号が右下に振ってあるので、並べ直すのは簡単だった。冬坂はそうしなかった。
冬坂は映像を最後まで流した。
視界が壁の下を見る。二秒、三秒。少し上がり、また同じ場所に戻る。二十九秒目に視界が沈み、三十秒目に暗くなる。
これまで、この動きを「確かめている」と読んだ。
いまは、何を確かめていたのかが分かる。
自分が隠したものが、そこから見えていないかどうかを、確かめていた。
「先生」
「なに」
「須賀沼は、隠していました。頭を割られて、意識を失うまでのあいだに、電話もせずに」
「命より大事なものがあったってこと?」
「あるいは」冬坂は言った。「自分が死ぬとは思っていなかったのかもしれません」
鵜沢はパンの袋を開けた。今度は取り出した。取り出してから、二口食べて、残りを袋に戻した。
「どっちにしても、隠したのよね」
「隠しました」
「じゃあ、何を」
冬坂は写真を裏返した。
箱があった場所。壁から三枚目のタイル。
いまそこには、色の変わった長方形しか残っていない。管理会社が原状回復のときに外し、ゴミとして処分した。
三日か四日前だと、男は言っていた。片手で持てた、とも。その日のうちに業者が持っていった、とも。
誰も、その中を見ていない。




