第17話 トリアージの根拠
開示請求は、四日で却下された。
却下理由の欄には、一行だけ印字されていた。
——一次解析に係る内部判断は、証拠開示の対象に含まれない。
用紙は片面だけだった。裏は白く、印刷の跡もない。この一行のためにA4が一枚使われている。
封筒には切手が貼られていなかった。庁内の便で裁判所まで運ばれ、そこから弁護士会の箱に入れられて、鵜沢の手に渡ったものだった。日付の印は、発送の日ではなく作成の日だった。
作成から手元に届くまで、三日かかっている。書くのに要した時間は、たぶん一分に満たない。
***
冬坂は窓口へ行った。番号は六番だった。
六番までに、四人が呼ばれた。三人は五分以内に終わり、一人は長かった。長いほうの人は、途中で二度、鞄から別の紙を出した。出すたびに、窓口の職員が席を立って奥へ行った。
待合の椅子は、脚の一本に紙が挟んであった。ぐらつきを止めるためだ。挟んだ紙は折り畳まれていて、何の紙かは分からない。
冬坂は座らずに、掲示の前に立っていた。開示請求の手順が、七つの項目に分けて書いてある。七つのうち五つが、書式の名前だった。
六番が呼ばれた。
「この判断について、説明をお願いします」
「書面に記載のとおりです」
皆瀬は却下通知の写しを、両手で冬坂の正面に置いた。角は揃っていた。
「管理官。トリアージは、この事件を『事件性なし』と判定しました」
「そのとおりです」
「その判定が、何を根拠に出されたのかを、弁護側は知る必要があります」
「必要性については、当課は判断する立場にありません」
「では誰が判断しますか」
「異議を申し立てていただければ、審査会が判断いたします」
「審査会の結論はいつ出ますか」
「事案によりますが、三か月から半年です」
公判まで一か月半だった。皆瀬はそれを知っている。冬坂も、皆瀬が知っていることを知っていた。
それでも皆瀬は、待てとは言わなかった。急げとも言わなかった。ただ制度の中にある数字を答えただけだった。
窓口の時計は、待合の掲示のすぐ上にあった。秒針がない時計だった。長針が動くときだけ、時間が進んだことが分かる。動く瞬間を見ていないと、どれだけ経ったのか分からない。
「管理官」
「はい」
「一つだけ、教えてください」
「内容によります」
「トリアージは、解析基準時刻の三十秒間を見て判定しますね」
皆瀬は答えなかった。
冬坂は続けた。
「その三十秒に加害者が映らず、争った形跡もなければ、機械は事件性なしと判定します。そういう設計です」
「設計についてのご質問は、当課の所掌ではありません」
「所掌でなくても、事実は変わりません」
皆瀬は冬坂を見た。それから、机の上の却下通知を、指の腹で一度だけ揃えた。
揃える必要はなかった。一枚しかない紙だった。
「冬坂さん」
「はい」
「その解析が誤っていたと、お考えですか」
初めて、皆瀬のほうから問いが来た。
冬坂は一拍置いた。
「いいえ」
皆瀬の顔は変わらなかった。
「機械は誤っていません」冬坂は言った。「与えられた三十秒を、正しく読みました。誤ったのは、その三十秒がいつのものかを知らずに使った側です」
皆瀬は何も言わなかった。
窓口の隣で、別の職員が印刷機のトレイを引き出す音がした。紙を足して、また押し込んだ。押し込むときに一度引っかかり、二度目で入った。
「本日のご用件は以上でしょうか」
「以上です」
「お気をつけて」
***
「腹立つわね、あの人」
鵜沢が言った。庁舎の前の歩道だった。
「規則しか言わないから」
「規則しか言っていません」
「それが腹立つの」
冬坂は歩きながら、却下通知を鞄に入れた。
「先生。機械は正しかったんです」
「聞こえてた」
「私はずっと、トリアージが誤判定したと思っていました。頭を割られた死体を事件性なしと判定するのは、機械の限界だと」
「違ったのね」
「違いました。あの機械は、二十一時ちょうどの三十秒を見た。そこには誰もいなかった。争ってもいなかった。だから事件性なしと出した。正しい動作です」
鵜沢は缶コーヒーの蓋を開けた。歩きながら開けたので、少し溢れた。
「誤ってたのは人間のほう」
「そうです」
「十七年間」
「十七年間です」
鵜沢は一口飲んで、顔をしかめた。
「甘い」
「そうですか」
「買い間違えたわ」
彼女はそれでも飲み続けた。捨てなかった。
歩道の途中に自動販売機があった。同じ銘柄が二列に並んでいて、片方だけ売り切れていた。鵜沢はそれを見て、何も言わなかった。
***
その夜、冬坂は日付をもう一度並べた。
紙に書いた。頭の中で並べると、順番が入れ替わることがある。三年前に一度、そうなったことがあった。
二十三日、須賀沼死亡。
二十四日午前、妹が拒否権を行使。
二十四日午後、トリアージが事件性なしと判定。
二十四日、保存措置。
二十五日、拒否権の撤回。
二十六日、異議申立て。
書いてから、順番を変えて書き直した。行為の主体ごとに分ける。妹がしたこと、機械がしたこと、誰かがしたこと。三つに分けると、二十四日だけが三つとも埋まった。
冬坂は、二十四日の午前で手を止めた。
妹は、拒否権を行使した。理由は書かれていない。
なぜ拒むのか。
拒否権を使う遺族の理由は、統計上いくつかに分かれる。遺体に触れさせたくない。死に方を見たくない。宗教上の理由。そして、映ってほしくないものがある場合。
技師の頃、その統計を研修で見た。四番目の項目には数字が付いていなかった。理由が記録されない制度で、どうやって数えたのかは、そのとき誰も訊かなかった。
あの資料は配られず、映して説明されただけだった。手元に残らないものを、冬坂は覚えている。四番目の行の右端が、他より広く空いていたことも。
冬坂は、須賀沼の事務所の入退館記録を引き寄せた。
芦原。週に三度から四度。夕方に入り、夜に出る。
妹は、兄の生活を知らないわけではないだろう。市外に住んでいても、身内が誰と一緒にいるかくらいは、耳に入る。
もし映像に、その人物が映っていたら。
冬坂はペンを置いた。
二十四日の午前、妹は再生を止めた。誰かが映ることを恐れて。
そして翌日、撤回した。
冬坂はその一日を見た。
二十四日から二十五日のあいだに、彼女は何かを知った。恐れが消えるだけの何かを。
映像には誰も映らない、と。
冬坂は椅子から立ち上がった。立ち上がってから、立ち上がる必要がなかったことに気づいたが、座り直さなかった。
二十五日の時点で、まだ再生は行われていない。
映像はまだ存在しない。誰も見ていない。
それなのに、そこに誰も映らないと、断言できた人間がいる。
冬坂は、机の上の紙をもう一度見た。三つに分けた欄の、三つ目。誰かがしたこと。そこには保存措置しか書いていない。
もう一行、書けることがあった。
冬坂はペンを取り、二十四日夕方、と書きかけて、やめた。妹から聞いたわけではない。誰かがそう言ったという事実を、まだ持っていない。
書きかけの線が、日付の下に残った。
窓の外は暗かった。冬坂は明かりを消していない部屋の中で、自分の影が床に伸びているのを見た。
映らないと知っていた人間がいる。
その人間は、映像が殴打の直後ではないことを、知っていたことになる。




