第18話 庇われた者
妹の家は、市外の丘の上にあった。
駅からバスで十五分、そこから坂を七分。同じ形の家が並ぶ区画で、どの家にも小さな前庭があった。分譲されたときに一斉に建てられたのだろう。屋根の色だけが三種類あり、それが規則的に繰り返されている。
前庭も似ていた。植えてあるものが違うだけで、区切り方は同じだった。三軒に一軒、車庫の前に自転車が置かれている。
表札には、須賀沼ではない姓が出ていた。
冬坂はインターホンを押した。
二度目で、女の声が出た。
「はい」
「須賀沼敬一さんの件で伺いました。冬坂と申します」
沈黙があった。冬坂は待った。
「弁護士さんの方」
「弁護側の鑑定人です。弁護士ではありません」
「同じでしょう」
「違います。私は映像を読む仕事です」
また沈黙があった。今度は短かった。
インターホンが切れ、しばらくして玄関の扉が十センチほど開いた。鎖はかかったままだった。
顔の半分だけが見えた。六十に近いだろうか。兄と似ているかどうかは分からなかった。冬坂は須賀沼の生前の顔を、写真でしか知らない。
「話すことはないです」
「三分で結構です」
「何を訊きたいんですか」
「二十四日の朝に、再生を拒まれた理由を」
扉の隙間で、女の目が動いた。
「理由は、書かなくていいことになってます」
「そのとおりです」
「じゃあ」
「書かなくていいことになっているものを、伺いに来ました」
女は扉を閉めなかった。閉めようとして、やめたように見えた。
***
「兄には、女の人がいました」
最初にそう言った。
「名前は知りません。会ったこともないです」
「なぜご存じでしたか」
「兄が言ったので。去年の暮れに、電話で。使える子を見つけた、と」
冬坂は繰り返さなかった。繰り返せば、女は言い直しただろう。
「使える、というのは」
「そういう言い方をする人でした」女は言った。「兄のことを悪く言いたいわけじゃありません。ああいう商売なので」
鎖のかかった扉の向こうで、家の奥から時報のような音が鳴った。柱時計かもしれなかった。女は少しだけ振り返り、また戻った。
振り返ったとき、鎖が扉の縁に当たって音を立てた。彼女はそれを手で押さえた。押さえてから、押さえたことに気づいたようだった。
「二十四日の朝、その方が映ることを心配されましたか」
女は答えなかった。それが答えだった。
「あの人の三十秒に、その子が映ってたら」
女の指が、扉の縁を押さえていた。
「兄は死んで、その子は残るでしょう。名前も知らないのに、映像に映ったっていうだけで、いろんなことになる。そういうのは、よくないと思ったんです」
「拒否権を行使された」
「はい」
「翌日、撤回されました」
女の指が、扉から離れた。
***
「電話がありました」
「どなたから」
「役所の方です」
「再生記録課ですか」
「そう名乗られました。名前は、控えたんですけど、どこかへやってしまって」
「控えられたんですね」
「メモは取ります。昔から」
冬坂はそれ以上訊かなかった。控えを取る人が、その一枚だけをなくした。それを問い詰めても、出てくるものはない。
「内容を」
女は視線を落とした。玄関のたたきに、三足の靴が揃えて置かれていた。どれも女物で、大きさが違っていた。
いちばん手前の一足だけ、爪先の向きが揃っていなかった。急いで脱いだあとに、誰かが直しきらなかった形だった。
「拒否権を使われるのは自由ですが、と。ただ、参考までに、と」
「参考までに」
「あの現場は、そういう映り方をする場所ではありません、と。そう言われました」
冬坂は、自分の呼吸が一度止まったのが分かった。
「そういう映り方をする場所ではない」
「ええ」
「他には」
「気になるなら、再生の結果をご覧になってから判断されてもいい、とも。拒否権は撤回できますから、と」
「その電話は、何日でしたか」
「二十四日の、夕方です」
女は顔を上げた。
「わたし、それで安心してしまって。次の日に撤回して、それから、やっぱり調べてほしいと思って、異議も出しました。兄が殺されたのは確かなんですから」
「結果は」
「誰も映っていませんでした」
女は少し笑った。笑った形だけだった。
「役所の方の言うとおりでした」
冬坂は礼を言った。扉は、閉まる前に一度止まった。何か言い足すのかと思ったが、そのまま閉まった。鍵の音が二つした。
二つ目の音は、一つ目より少し遅れた。かけ忘れて、思い出してかけた間だった。
***
坂を降りながら、冬坂は鵜沢に電話をかけた。
風があった。丘の上は、下の通りより五度ほど寒く感じる。
「先生」
「どうだった」
「二十四日の夕方、再生記録課の職員が妹さんに電話しています。あの現場はそういう映り方をする場所ではない、と」
鵜沢は何も言わなかった。
「再生前です。誰も映像を見ていません」
「……名前は」
「控えたが、なくしたそうです」
「録音は」
「ありません」
バスの停留所が見えてきた。屋根のない、標識だけの停留所だった。
「先生。もう一つあります」
「言って」
「妹さんは、兄に女性がいたと言いました。名前は知らないと。ですが、事務所の入退館記録には、姓が残っています」
「芦原ね」
「はい」
「柏木の縁故者と、同じ人?」
「縁故者の氏名は非開示です。ですが」
冬坂は停留所の標識の前で立ち止まった。
「柏木郁夫の再生を止めた人物は、書類を立ったまま読み、立ったまま署名しました。椅子が横にあったのに、座りませんでした」
「それが何」
「須賀沼の事務所の入退館記録に、芦原という人物が週に三、四度出入りしています。夕方に入り、夜に出る。滞在時間は平均で二時間十分。短い日は四十分」
「だから」
「四十分の日が、月に三度あります」冬坂は言った。「座らずに用を済ませた日があっても、おかしくありません」
電話の向こうで、鵜沢が息を吐いた。
「あなた、それ、証拠にならないわよ」
「なりません」
「じゃあ何なの」
「同じ人だと思っています」
鵜沢はしばらく黙っていた。
「冬坂先生」
彼女が姓をつけて呼んだのは、初めてだった。
「はい」
「それ、郷田さんの無罪に必要?」
冬坂は答えなかった。
「必要ないでしょ。犯人が誰かは、こっちの立証の外なの。うちは須賀沼が二十一時より前に殴られて、その時刻まで郷田さんが飲み屋にいたことを言えばいい。それで終わりよ」
「終わります」
「なら、そこで止めて」
バスが坂を上ってきた。ウインカーの音が近づいてくる。
「先生」
「なに」
「三年前の事件の被告人には、娘がいました」
鵜沢が黙った。
「当時、二十五歳です」
バスが停まり、扉が開いた。冬坂は乗らなかった。運転手が二秒待ち、それから扉を閉めて発車した。
***
坂の下へ降りていくバスを、冬坂は見ていた。
次のバスは二十六分後だった。時刻表は、そこまでしか書かれていない。
乗らなかった理由を、冬坂は自分で説明できた。電話の途中だったから。降りる駅で乗り換えの待ちが出るから。歩いても四十分ほどだから。
三つとも本当で、三つとも、乗らないことの理由にはならない。
二十六分。冬坂はその数字を、頭の中で別のものに置き換えた。二十四分。あの差より、二分長い。
二十四分がどれくらいかを、冬坂はいままで一度も体感していなかった。書式の上の数字で、欄の幅は四桁ぶん。指の腹より少し広い。
いま、坂の下から風が上がってくる。標識の柱が細く鳴る。二十六分は、こういうものだった。
三年前、この長さのあいだ、芦原邦彦は倒れた相手の傍にいた。いたはずだった。何をしていたかは、映像の最後の三十秒しか残っていない。残りの二十数分は、誰も見ていない。
冬坂は標識に手を触れなかった。触れる用事がなかった。
三年前、あの法廷に傍聴人はいた。冬坂は証言台にいて、傍聴席のほうは見なかった。見る必要がなかったからだ。
だが、いたはずだった。
誰かが、あの席で、自分の証言を聞いていたはずだった。
バスは、二十六分後に来た。冬坂はそれに乗った。乗ってから、坂の上を一度も振り返らなかった。




