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再生証言  作者: 卓哉
第三章 反転

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19/32

第19話 同じずれ

 三年前の記録は、自宅の押入れにあった。


 段ボール一箱。返上のときに持ち出したもので、開けたことは一度もない。上に冬物の寝具が二袋乗っていた。冬坂はそれを下ろし、箱を床へ引き出した。


 袋は軽いのに嵩があった。下ろすと畳の上で形が崩れ、置き場所を二度変えることになった。


 ガムテープは黄色く硬くなっていて、剥がすと繊維ごと持ち上がった。


 剥がすまでに、少し時間がかかった。爪を立てる場所を三度変えた。三度目でようやく端が浮いた。急がなかったわけではない。急ぐと破れると思った。破れて困るものは、この箱の中にはない。


 蓋を開けた。


 紙の匂いがした。


 判決文の写し。公判記録の抜粋。そして、自分が書いた鑑定書の控え。


 順番に取り出して、床に並べた。並べる必要はなかった。並べてから、六枚の紙を事務所で並べた夜のことを思い出した。あのときと同じ置き方をしていた。


 箱の底には、紙以外のものが少し残っていた。輪ゴムが二本。硬くなって、伸ばすと切れそうだった。名札の留め具。金属の部分だけで、名前の入る面はない。


 畳の上に並べた紙は、四隅が少し反っていた。押入れの中で、上から重みがかかっていた側だけが平らだった。


 冬坂は膝をついたまま、しばらくその並びを見ていた。順番を変えれば別の読み方ができるという種類のものではない。それでも、並べ方はいつも同じだった。


 冬坂は鑑定書を最後に取った。


***


 被害者は、芦原邦彦と同じ工場に勤めていた男だった。五十一歳。休憩室で口論になり、転倒し、後頭部を打った。搬送先で死亡。


 冬坂は死亡診断書の写しを探した。


 死亡確認、午後三時二十二分。


 次に、救急の記録を探した。通報、午後二時五十一分。


 三十一分。


 冬坂は、その差を初めて数字として見た。


 三年前、この数字は目に入っていた。入っていて、意味を持たなかった。搬送に時間がかかった。病院で亡くなった。それだけのことだった。


 いまは違う。


 三十一分あれば、意識を失う時点と、死亡する時点は、確実にずれる。


***


 鑑定書の控えを開いた。


 自分の字だった。三年前の自分は、いまより少し右上がりに書いていた。


 映像の記述。三十秒の内容。被告人が両手を前に出す動作。冬坂の所見。


 ——両手の動きは、押し出す動作と整合する。


 冬坂はその行を読んだ。読んでから、次の一枚をめくった。


 一次記録の写しがあった。


 持ち出してはいけないものだった。三年前、なぜこれを箱に入れたのか、覚えていない。覚えていないことにしていた、のかもしれない。


 書式は変わっていなかった。三十七の項目。上から十二番目。


 欄の幅も同じだった。四桁でいっぱいになる幅。その隣に、同じ幅の欄がある。


 解析基準時刻。


 その欄に、数字が入っていた。


 一四:五八。


 冬坂はその数字を見た。


 死亡確認は十五時二十二分。解析基準時刻は十四時五十八分。


 二十四分。


***


 冬坂は立ち上がらなかった。


 床に座ったまま、紙を膝に置いていた。部屋の明かりは点けたままで、窓の外はもう暗い。畳の縁が、膝の下で硬かった。


 指の先が冷たくなっていた。部屋は寒くない。暖房は点けていないが、この時期の室内で手が冷えるほどではなかった。


 部屋の音が、少し遠くなった。冷蔵庫の音も、外の車の音も、聞こえているのに、間に一枚あるように聞こえた。


 二十四分。


 映像は、被害者が意識を失う直前の三十秒だった。転倒の瞬間ではない。


 被害者は転倒し、しばらく意識があり、その後で意識を失った。映像に写っていたのは、そのあいだのどこかだ。


 あの三十秒で、芦原邦彦は両手を前に出していた。


 転倒の二十分後に。


 押している映像ではない。


 映っていたのは、倒れた相手の傍に二十分留まり、それからもう一度手を伸ばした芦原邦彦だった。


 あれは、支えようとした手だったのかもしれない。


 あるいは、起こそうとした手だったのかもしれない。


 少なくとも、あの三十秒を根拠に、押したと断定することはできない。


 冬坂は、その映像をもう一度、頭の中で流した。流せてしまうことが、こういうときは苦しかった。


 一度見たものを忘れない。それは長いあいだ、自分の取り柄だった。証言を求められる理由でもあった。


 いまは、そうではない。


 忘れられないということは、あの手が伸びる場面を、これから何度でも正確に再生できるということだった。何度でも、同じ鮮明さで。


***


 冬坂は、一次記録の写しを持ち上げた。


 解析基準時刻の欄。一四:五八。


 この数字を、誰が書いたか。


 書式の下部に、記入者の欄がある。


 冬坂慧。


 自分の字だった。


***


 冬坂は、そのまま動かなかった。


 三年間、自分は誤読したのだと思ってきた。映像を見て、意味を読み違えた。技術者としての失敗だった。だから資格を返上した。返上すれば、二度と同じ失敗をしない。


 だが、この数字は、自分が書いている。


 書いたということは、目に入れたということだ。


 目に入れて、書いて、そして意味を考えなかった。


 考えなかったのか。


 冬坂は、そこで思考が止まるのを感じた。


 考えなかったのか。それとも。


 紙の縁が、指の下で少し曲がっていた。冬坂は力を抜いた。曲がった跡は残った。


 思い出せない。


 三年前のあの日、この欄に数字を書いたときに、自分が何を思ったのか。何も思わなかったのか。何かを思って、それを置いたのか。


 覚えていない。


 冬坂は、一度見たものを忘れない。それが自分の唯一の取り柄だった。三十秒の映像を、画素の滲みまで覚えている。現場のタイルの割れ方を、一度歩いただけで思い出せる。


 拘置所のアクリル板の傷の高さも、覚えている。妹の家の玄関に並んでいた靴の数も、そのうちの一足だけ爪先の向きが違っていたことも。


 その自分が、この数字を書いた瞬間だけ、覚えていない。


 覚えていないのではなく、思い出さないようにしてきたのだとしたら。


 冬坂は、その先を考えなかった。考えないという判断を、自分がいましたことだけは分かった。


***


 携帯が鳴ったのは、二十二時を過ぎてからだった。


 鵜沢だった。


「まだ起きてる?」


「起きています」


「明日、公判前整理手続。十時」


「はい」


 鵜沢の声が、少し止まった。


「検察から書面が来たわ」


「内容を」


「あなたのこと」


 冬坂は、膝の上の紙を見た。


「鑑定人としての適格性に疑義がある、って。三年前の事件の関係者だから」


「事実です」


「事実なのが厄介なのよ」


 鵜沢は何かをめくっている。


「相手、どこから拾ったのかしらね。三年前の判決文なんて、誰も読まないわよ」


「読む人間はいます」


「誰」


 冬坂は答えなかった。


 答えは一つしか思いつかなかったが、それは証拠のない話だった。三年前の判決文と、須賀沼の事件と、その両方に触れられる場所にいる人間。


「先生」


「なに」


「私は、三年前の一次記録を持っています」


 電話の向こうで、鵜沢が動きを止めた気配がした。


「持ってるって、どういうこと」


「返上のときに、持ち出しています」


「……それ、まずいわよ」


「まずいです」


「何が書いてあるの」


 冬坂は紙を見た。自分の字で書かれた、四つの数字を。


「三年前の事件にも、同じずれがありました。二十四分です」


 鵜沢は、しばらく黙っていた。


「それ、あなたが書いたの」


「私が書きました」


 窓の外で、遠くを電車が通る音がした。線路は近くない。夜だから聞こえるだけだ。


 床には、まだ紙が広げてあった。片づける手順を、冬坂は考えなかった。


「先生。もし、ずれを知りながら証言した技師がいたのだとしたら」


 冬坂は言った。


「それは、私かもしれません」


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