第19話 同じずれ
三年前の記録は、自宅の押入れにあった。
段ボール一箱。返上のときに持ち出したもので、開けたことは一度もない。上に冬物の寝具が二袋乗っていた。冬坂はそれを下ろし、箱を床へ引き出した。
袋は軽いのに嵩があった。下ろすと畳の上で形が崩れ、置き場所を二度変えることになった。
ガムテープは黄色く硬くなっていて、剥がすと繊維ごと持ち上がった。
剥がすまでに、少し時間がかかった。爪を立てる場所を三度変えた。三度目でようやく端が浮いた。急がなかったわけではない。急ぐと破れると思った。破れて困るものは、この箱の中にはない。
蓋を開けた。
紙の匂いがした。
判決文の写し。公判記録の抜粋。そして、自分が書いた鑑定書の控え。
順番に取り出して、床に並べた。並べる必要はなかった。並べてから、六枚の紙を事務所で並べた夜のことを思い出した。あのときと同じ置き方をしていた。
箱の底には、紙以外のものが少し残っていた。輪ゴムが二本。硬くなって、伸ばすと切れそうだった。名札の留め具。金属の部分だけで、名前の入る面はない。
畳の上に並べた紙は、四隅が少し反っていた。押入れの中で、上から重みがかかっていた側だけが平らだった。
冬坂は膝をついたまま、しばらくその並びを見ていた。順番を変えれば別の読み方ができるという種類のものではない。それでも、並べ方はいつも同じだった。
冬坂は鑑定書を最後に取った。
***
被害者は、芦原邦彦と同じ工場に勤めていた男だった。五十一歳。休憩室で口論になり、転倒し、後頭部を打った。搬送先で死亡。
冬坂は死亡診断書の写しを探した。
死亡確認、午後三時二十二分。
次に、救急の記録を探した。通報、午後二時五十一分。
三十一分。
冬坂は、その差を初めて数字として見た。
三年前、この数字は目に入っていた。入っていて、意味を持たなかった。搬送に時間がかかった。病院で亡くなった。それだけのことだった。
いまは違う。
三十一分あれば、意識を失う時点と、死亡する時点は、確実にずれる。
***
鑑定書の控えを開いた。
自分の字だった。三年前の自分は、いまより少し右上がりに書いていた。
映像の記述。三十秒の内容。被告人が両手を前に出す動作。冬坂の所見。
——両手の動きは、押し出す動作と整合する。
冬坂はその行を読んだ。読んでから、次の一枚をめくった。
一次記録の写しがあった。
持ち出してはいけないものだった。三年前、なぜこれを箱に入れたのか、覚えていない。覚えていないことにしていた、のかもしれない。
書式は変わっていなかった。三十七の項目。上から十二番目。
欄の幅も同じだった。四桁でいっぱいになる幅。その隣に、同じ幅の欄がある。
解析基準時刻。
その欄に、数字が入っていた。
一四:五八。
冬坂はその数字を見た。
死亡確認は十五時二十二分。解析基準時刻は十四時五十八分。
二十四分。
***
冬坂は立ち上がらなかった。
床に座ったまま、紙を膝に置いていた。部屋の明かりは点けたままで、窓の外はもう暗い。畳の縁が、膝の下で硬かった。
指の先が冷たくなっていた。部屋は寒くない。暖房は点けていないが、この時期の室内で手が冷えるほどではなかった。
部屋の音が、少し遠くなった。冷蔵庫の音も、外の車の音も、聞こえているのに、間に一枚あるように聞こえた。
二十四分。
映像は、被害者が意識を失う直前の三十秒だった。転倒の瞬間ではない。
被害者は転倒し、しばらく意識があり、その後で意識を失った。映像に写っていたのは、そのあいだのどこかだ。
あの三十秒で、芦原邦彦は両手を前に出していた。
転倒の二十分後に。
押している映像ではない。
映っていたのは、倒れた相手の傍に二十分留まり、それからもう一度手を伸ばした芦原邦彦だった。
あれは、支えようとした手だったのかもしれない。
あるいは、起こそうとした手だったのかもしれない。
少なくとも、あの三十秒を根拠に、押したと断定することはできない。
冬坂は、その映像をもう一度、頭の中で流した。流せてしまうことが、こういうときは苦しかった。
一度見たものを忘れない。それは長いあいだ、自分の取り柄だった。証言を求められる理由でもあった。
いまは、そうではない。
忘れられないということは、あの手が伸びる場面を、これから何度でも正確に再生できるということだった。何度でも、同じ鮮明さで。
***
冬坂は、一次記録の写しを持ち上げた。
解析基準時刻の欄。一四:五八。
この数字を、誰が書いたか。
書式の下部に、記入者の欄がある。
冬坂慧。
自分の字だった。
***
冬坂は、そのまま動かなかった。
三年間、自分は誤読したのだと思ってきた。映像を見て、意味を読み違えた。技術者としての失敗だった。だから資格を返上した。返上すれば、二度と同じ失敗をしない。
だが、この数字は、自分が書いている。
書いたということは、目に入れたということだ。
目に入れて、書いて、そして意味を考えなかった。
考えなかったのか。
冬坂は、そこで思考が止まるのを感じた。
考えなかったのか。それとも。
紙の縁が、指の下で少し曲がっていた。冬坂は力を抜いた。曲がった跡は残った。
思い出せない。
三年前のあの日、この欄に数字を書いたときに、自分が何を思ったのか。何も思わなかったのか。何かを思って、それを置いたのか。
覚えていない。
冬坂は、一度見たものを忘れない。それが自分の唯一の取り柄だった。三十秒の映像を、画素の滲みまで覚えている。現場のタイルの割れ方を、一度歩いただけで思い出せる。
拘置所のアクリル板の傷の高さも、覚えている。妹の家の玄関に並んでいた靴の数も、そのうちの一足だけ爪先の向きが違っていたことも。
その自分が、この数字を書いた瞬間だけ、覚えていない。
覚えていないのではなく、思い出さないようにしてきたのだとしたら。
冬坂は、その先を考えなかった。考えないという判断を、自分がいましたことだけは分かった。
***
携帯が鳴ったのは、二十二時を過ぎてからだった。
鵜沢だった。
「まだ起きてる?」
「起きています」
「明日、公判前整理手続。十時」
「はい」
鵜沢の声が、少し止まった。
「検察から書面が来たわ」
「内容を」
「あなたのこと」
冬坂は、膝の上の紙を見た。
「鑑定人としての適格性に疑義がある、って。三年前の事件の関係者だから」
「事実です」
「事実なのが厄介なのよ」
鵜沢は何かをめくっている。
「相手、どこから拾ったのかしらね。三年前の判決文なんて、誰も読まないわよ」
「読む人間はいます」
「誰」
冬坂は答えなかった。
答えは一つしか思いつかなかったが、それは証拠のない話だった。三年前の判決文と、須賀沼の事件と、その両方に触れられる場所にいる人間。
「先生」
「なに」
「私は、三年前の一次記録を持っています」
電話の向こうで、鵜沢が動きを止めた気配がした。
「持ってるって、どういうこと」
「返上のときに、持ち出しています」
「……それ、まずいわよ」
「まずいです」
「何が書いてあるの」
冬坂は紙を見た。自分の字で書かれた、四つの数字を。
「三年前の事件にも、同じずれがありました。二十四分です」
鵜沢は、しばらく黙っていた。
「それ、あなたが書いたの」
「私が書きました」
窓の外で、遠くを電車が通る音がした。線路は近くない。夜だから聞こえるだけだ。
床には、まだ紙が広げてあった。片づける手順を、冬坂は考えなかった。
「先生。もし、ずれを知りながら証言した技師がいたのだとしたら」
冬坂は言った。
「それは、私かもしれません」




