第20話 除斥
公判前整理手続は、四十分で終わった。
小さい法廷だった。傍聴席は二列しかなく、そこに座っているのは冬坂だけだった。書記官の打鍵の音が、天井に届く前に消えていく。
天井が低いぶん、声もよく通った。誰かが咳をすれば、全員に聞こえる部屋だった。それでも誰も咳をしなかった。
検察官は書面を読み上げただけだった。冬坂慧は三年前の傷害致死事件において鑑定人として証言しており、当該事件の被告人の関係者が本件に関与している疑いがある。したがって本件における鑑定人としての中立性には疑義がある。
三行だった。冬坂の三年間は、他人の口から出ると三行で済んだ。
読み上げる声には抑揚がなかった。書いた人間と読んだ人間は、たぶん違う。
鵜沢が反論した。関与の疑いという表現は具体性を欠く。鑑定人の適格は事案との利害関係によって判断されるべきであり、過去の職務歴によって否定されるものではない。
言葉は正確だった。速度も落とさなかった。それでも冬坂には、彼女が短く話しているのが分かった。長く話す材料がなかったからだ。
裁判長は、二分だけ考えた。
その二分のあいだ、冬坂は自分の指が膝の上で動くのを見ていた。止めようとして、止めた。止めたことのほうが、後で覚えていた。
冬坂の鑑定人としての選任は、取り消された。
書記官の指が動いた。取り消しも、三行より短い記載で済むのだろうと思った。
***
廊下で、鵜沢はコートを着なかった。腕にかけたまま歩いていた。
「予想はしてたわ」
「はい」
「でも、早すぎる」
鵜沢は足を止めた。窓の外は曇っていて、廊下の床に影ができていなかった。
「三年前の判決文と、須賀沼の事件の関係者を、両方知ってないと書けない書面よ、あれ」
「そうです」
「検察が自力でやったなら、二か月はかかる。うちが芦原の名前に行き着いたのだって、先週なんだから」
冬坂は答えなかった。
「誰かが渡してるわね」
「渡した人間には、渡す理由があります」
「言ってみて」
「私が三年前の記録に触れることを、止めたい人間です」
鵜沢はしばらく冬坂を見ていた。それから、コートを着た。袖に腕を通すとき、書類の束を一度腋に挟んだ。挟んだまま片袖を通し、持ち替えて、もう片方を通した。何度もやっている手順だった。
「先生。あなた、正式には外れた」
「外れました」
「でも、私が私的に相談する分には、誰も止められない」
「証拠にはアクセスできません」
「私が見て、あなたに話すわ」
「それは」
「文句あるの」
冬坂は一拍置いた。
「時間がかかります。先生の負担が増えます」
「増えるわね」鵜沢は歩き出した。「増えるけど、勝ち筋は残るのよ」
冬坂は半歩遅れて続いた。
三年前、この建物を出たときのことを思い出しかけて、やめた。あのときも同じ廊下を歩いた。あのときは、まだ資格を持っていた。
廊下の壁に、事件番号を書いた紙が並んで貼ってある。今日の分だ。夕方には剥がされ、明日はまた別の番号が並ぶ。剥がした跡の粘着が、下地に薄く残っていた。
***
鵜沢は、そのまま別の法廷へ入っていった。午後にもう一件あると言っていた。
冬坂は、裁判所を出た。
行く場所がなかった。事務所の鍵は持っていない。庁舎には、もう請求するものがない。現場は二日前に見ている。
三年前と同じだった。あの日も、資格を返上した帰りに、行く場所がなかった。
冬坂は歩いた。裁判所の前の通りを南へ、それから東へ折れた。折れる理由はなかった。信号が青だったからだ。
昼を過ぎていた。食堂の前に、日替わりを書いた黒板が出ている。文字が半分消えかけていて、書き足した跡があった。冬坂はそれを読み、店には入らなかった。
鑑定人ではない。それは、映像を読んではいけないということではない。読んだものを、法廷に出せないというだけだ。
自分がやってきたことのうち、何が資格に属していて、何が属していないのかを、冬坂は歩きながら分けた。分けてみると、資格に属していたものは思ったより少なかった。
証拠に触れること。それだけだった。
残りは全部、自分の側にある。読むこと。並べること。数えること。覚えていること。
冬坂は、公園のベンチに座った。座ってから、鞄を開けなかった。中の書類は、もう自分のものではない。
二時間、そこにいた。
***
その日の夕方、鵜沢の事務所に封筒が届いた。
弁護士会を通じた照会の回答だった。柏木郁夫の縁故者登録について、再生記録課は開示を拒んだが、柏木の勤務先だった検査会社が、緊急連絡先として登録されていた氏名を回答してきた。
薄い封筒だった。鵜沢はペーパーナイフを使わずに、指で端を裂いた。
封を切り、一行目で手を止めた。
「先生」
冬坂は立ち上がった。
鵜沢は紙をそのまま差し出した。裏返しもしなかった。
芦原澪。二十八歳。
冬坂はその三文字を見た。
三年前、判決文の被告人欄に印字されていた姓と、同じ姓だった。
「娘さんね」
「はい」
「柏木の緊急連絡先が、須賀沼の事務所に出入りしてた人で、三年前の被告人の娘」
鵜沢は指を三本立て、それを一本にまとめた。
「全部、あなたの周りにいる」
「私の周りではありません」
「じゃあ何なの」
冬坂は紙を返した。
「須賀沼と柏木の周りです。私は、三年前に一度だけ、その人の父親の映像を読みました」
鵜沢は紙を封筒に戻した。戻してから、封筒の裂けた端を指で押さえた。押さえても閉じないことは分かっているはずだった。
「住所は」
「回答書に記載があります」
「行くわよ」
***
部屋は、空だった。
三階建てのアパートの二階。表札はない。カーテンレールに何もかかっていない。ドアの下から光は漏れていない。
外廊下に、植木鉢が三つ並んでいた。二〇一と二〇二の前だけだった。二〇三の前には何もなく、コンクリートの色が四角く濃くなっている場所があった。以前は何かが置かれていたのだと分かる。
濃い部分の輪郭は、はっきりしていた。長く同じ場所にあったものが、最近になって外された形だった。
冬坂は郵便受けを覗いた。空だった。抜かれたばかりの匂いがした。
柏木の部屋と同じだった。
「いつからです?」
鵜沢が管理人に訊いた。
「先週の頭ですね。急でしたよ。違約金払って出ていかれて」
「揉めましたか」
「いえ。きっちり払っていかれて。掃除もされてました。あんな綺麗に出ていく人、珍しいですよ」
「行き先は」
「聞いてないです。転送もかけてないみたいで」
「荷物は多かったですか」
「少なかったですね。運送屋も呼んでなかったんじゃないかな」
冬坂は、その一言を書き留めなかった。ペンを出さなかった。出したところで、書くことは決まっていた。
綺麗に出ていった。急いでいた人間は、掃除をしない。
鵜沢は礼を言い、階段を降りた。冬坂は二階の窓を見上げてから、後を追った。
***
「二人目ね」
鵜沢が言った。アパートの前の道で、彼女は立ち止まっていた。
「柏木も、部屋を引き払われてた」
「引き払われました」
「あっちは殺されてる」
「はい」
鵜沢はコートのポケットに手を入れた。何も出さずに、そのままにした。
「先生。彼女、逃げたのかしら。それとも」
冬坂は答えなかった。
答えの片方は、口に出せる種類のものではなかった。
道の向かいで、自転車が一台停まった。学生らしい女が降りて、鍵をかけ、隣の建物へ入っていった。この時間に帰ってくる人間がいて、明かりの点く部屋がある。それが普通の建物だった。
空の窓が並んでいた。夕方の光が、ガラスの内側の白い壁を照らしていた。
冬坂は、その白さを見ていた。
三年前、あの法廷の傍聴席にいたはずの人物は、いま、どこにもいない。




