第21話 勾留
二度目の拘置所は、一度目と同じだった。
同じ受付で同じ紙を書き、同じように携帯とペンを預けた。番号札の数字だけが違っていた。
袋の口を結ぶ職員は、前と別の人だった。それでも結び目の位置は同じだった。
道の向かいの幼稚園は、この時間はもう静かだった。植え込みは、前より短く刈られていた。
待合には、前より人が少なかった。長椅子の端に、封筒を持った若い女がいた。前に見た人かどうかは分からない。封筒の角が柔らかくなっているところだけが同じだった。
接見室のアクリル板も同じだった。傷が同じ高さに走っている。前と同じ椅子に座って、冬坂はそれを確かめた。
板の下の隙間に挟まっていた紙の繊維は、なくなっていた。誰かが掃除したのか、別の書類と一緒に抜けたのかは分からない。
「今日は、好きに訊いていいわよ」
鵜沢が言った。
冬坂は彼女を見た。
「前は止められました」
「前は止めたわ」
「何が変わりましたか」
「あなたが外れた」鵜沢はコートの襟を直した。「外された人が来るのって、依頼人は覚えてるのよ。使えるものは使うの」
「使ってください」
「言われなくても使う」
それから彼女は、少しだけ言い足した。
「あと、私が訊いても、あの人は答えないから」
***
郷田実は、痩せていた。
二週間しか経っていない。それでも、襟の合わせ方が変わっていた。首のところに隙間ができている。
彼は座り、両手を膝に置いた。その置き方だけが、前と同じだった。
「先生」
「郷田さん。お伝えすることがあります」
「はい」
「私は、鑑定人を外されました」
郷田の視線が、板の傷から上がった。今度は下がらなかった。
「外された」
「検察から申立てがあり、認められました」
「先生、辞めるんですか」
「辞めていません。外されました」
「それ、同じことじゃないですか」
冬坂は、すぐに答えられなかった。
この人は鈍い人ではない、と思った。一度目のときに、そう思わなかった自分のほうが雑だった。
「同じではありません」冬坂は言った。「立場は失いました。ですが、続けます」
「続けるって、何をですか」
「読むことです」
「読む」
「映像と、記録を。それは誰の許可も要りません」
郷田はしばらく黙っていた。
「先生、なんで外されたんですか」
***
説明には、三分かかった。
三年前の事件。自分の証言で有罪になった人がいること。その人の家族が、本件に関わっている疑いがあること。だから中立性を疑われたこと。
言いながら、冬坂は自分の言葉が短くなっていくのが分かった。事実を並べると、それは三行で済んだ。三年間、三行で済むことを説明できずにいた。
昨日、同じ三行を検察官の声で聞いた。他人の口から出たときと、自分の口から出るときとで、長さは変わらなかった。
郷田は最後まで口を挟まなかった。板の向こうで、姿勢も変えなかった。
説明のあいだ、隣の接見室から声が聞こえていた。壁は薄い。何を言っているかは分からないが、抑揚だけが伝わる。片方が高く、片方が低い。低いほうが長く続いた。
途中で、その声が止まった。止まってからのほうが、こちらの部屋は静かになった。
郷田は、その静かさの中で座っていた。板の向こうで、手は膝の上にある。指の位置も変わっていない。
「その人は」
「亡くなりました。服役中に」
「そうですか」
郷田は板の下の隙間を見た。書類を通すための、細い隙間だった。
「先生も、大変ですね」
冬坂は、その言葉を受け取った。
同情ではなかった。共感でもなかった。ただ、こちら側にも面倒があるのだと知って、それを口に出しただけだった。
それでも、この件が始まってから、そう言われたのは初めてだった。
鵜沢が横で、書類の位置を少し動かした。それ以外、彼女は何もしなかった。
***
「郷田さん」
「はい」
「言っていないことが、ありますね」
郷田の手が、膝の上で一度だけ動いた。握ったのではない。指の位置を変えただけだった。
「何のことですか」
「須賀沼さんとのことです」
「話しましたよ。取引はしてたって」
「細かいのを、ぽつぽつと、と言われました」
「はい」
「その言い方を、私は覚えています」
郷田は答えなかった。
鵜沢が横で動かないのが分かった。腕時計も見ていない。
沈黙は、たぶん十秒ほどだった。アクリル板の向こうで、郷田は一度、息を吸って、吐いた。それが聞こえる距離ではない。肩の動きで分かっただけだった。
「郷田さん。私は立証の外にいます。ここで伺ったことを、法廷に出す立場にありません」
「じゃあ、なんで訊くんですか」
「読み違えたくないからです」
郷田は初めて、少し笑ったように見えた。笑ったのかどうかは、板の反射で分からなかった。
「先生。言えないんですよ」
「なぜですか」
「言ったら、こっちが悪いことになるんです」
冬坂は動かなかった。
「言えば、私が、あの人を、そう思ってたことになるでしょう」郷田は言った。「恨んでたとか、困ってたとか。そういう話になるじゃないですか」
あの人、と彼は言った。一度目のときは、名前で呼んでいた。
「動機だと言われる」
「そうです」
「それは、弁護に必要な事実です。隠せば、あとで検察に出されます」
「出されたら、そのとき考えます」
「そのときでは遅い」
「遅くても」
郷田は言った。語尾が落ちた。落ちてから、もう一度上がった。
「言ったら、終わるんです。裁判じゃなくて、こっちが」
***
冬坂は、次の言葉を用意していた。
用意していたものを、口に出さなかった。
出せば、この人は答えるだろうと思った。答えたあとで、答えたことを悔やむだろうとも思った。三年前に自分がしたのは、そういうことだった。相手に答えさせて、その答えを紙に書いた。
鵜沢が咳払いをした。時間の合図ではなかった。彼女は何も言わずに、書類の束を膝の上で揃えた。角は揃えなかった。
「三軒の取引先ですが」冬坂は言った。「手紙は届きましたか」
「二軒から返事が来ました」
「一軒は」
「来ないです」
「どちらですか」
「いちばん長いところです」
郷田はそれを、事実として言った。声は落ちなかった。
「返事の中身は」
「様子を見ましょう、と。二軒とも、同じことが書いてありました」
同じ文面だったのだろう、と冬坂は思った。相談したのかもしれないし、思いつくことが同じだっただけかもしれない。どちらでも、意味は変わらなかった。
「手紙は、ご自分で書かれましたか」
「書きました。鉛筆で」
郷田はそれ以上言わなかった。何本あるか、どこで手に入れたか、そういうことは訊かなくても想像がついた。
***
時間になった。
郷田は立ち上がりかけて、途中で止まった。座り直しはしなかった。中腰のまま、板のこちら側を見た。
「先生」
「はい」
「無罪になったら、戻れますかね」
冬坂は一拍置いた。
「何にでしょうか」
「元に」
職員が扉を開けた。郷田は最後まで、その答えを待たなかった。待つ気がなかったのではない。待っても出ないと、たぶん分かっていた。
扉が閉まった。
冬坂は板の傷を見ていた。細い線が、同じ高さに走っている。前に来たときより、一本増えているようにも見えた。
数えていなかったので、確かめる方法はなかった。
一度見たものを忘れない男が、あのとき数えなかった。数えるようなものだと思っていなかったからだ。
受付で袋を返された。中身は預けたときのままだった。
外へ出ると、風が出ていた。塀に沿った植え込みの上を、枯れ葉が転がっていった。刈り込みの高さが揃っているので、葉は引っかからずに端まで行った。




