第22話 面会
柏木郁夫の遺体の引き取りは、木曜だった。
冬坂はそれを、市の斎場の受付で確認した。縁故者が引き取る場合、日程は当日まで公開されない。ただ、火葬の予約枠だけは、その日の予定表に出る。
名前は出ていない。時間だけが出ている。
午前十時二十分。
冬坂は九時四十分から、外の駐車場に立っていた。
斎場は丘の中腹にあり、駐車場から市街が見えた。煙突は建物の裏側にあって、待つ場所からは見えないように造られている。それでも、風向きによっては分かる。
駐車場には車が六台あった。そのうち四台は同じ方向を向いて停まっている。線が引かれていない場所に、それでも列ができていた。
二十五分のあいだに、二組が建物へ入った。
一組目は六人で、全員が黒い服だった。年配の男が先に立ち、残りが少し離れて続いた。誰も話していなかった。
二組目は三人。若い夫婦と、小さい子ども。子どもは駐車場の途中で立ち止まり、砂利を一つ拾って、また置いた。母親が手を引いた。子どもは振り返らなかった。
どちらの組も、来たときは固まっていて、建物に入るときには縦に並んだ。入口が狭いからだ。
冬坂は、それを見ていた。見ていることに意味はない。ただ、九時四十分から立っていると、他にすることがなかった。
十時になった。予定の時刻まで二十分ある。
冬坂は、自分が何を確かめに来たのかを、もう一度考えた。柏木の縁故者が誰かは、もう分かっている。書類で分かっている。ここへ来なくても、住所へ行けば会える。
それでも、ここへ来た。書類の上の名前と、庁舎で見た姿勢が同じ人のものかを、目で見て確かめたかった。
確かめたところで、証拠にはならない。
それに、と冬坂は思った。住所へ行けば、扉の前で名乗ることになる。ここなら、向こうが先にこちらを見る。逃げ場を作っているのは自分のほうだった。
***
女は、十時五分に来た。
バスを降りて、歩いてきた。黒っぽいコート。肩に届かない髪。手には何も持っていない。
喪服ではなかった。庁舎の待合で見たのと、同じコートに見えた。
冬坂は動かなかった。
女は建物へ入り、二十分ほどで出てきた。手に、白い布に包まれた箱を持っていた。
両手で持っていた。胸の高さより少し下で、身体から離さずに。
駐車場の縁で、冬坂は名乗った。
「芦原澪さんですね」
女は足を止めた。
顔がはっきり見えたのは、このときが初めてだった。二十八歳という数字と、顔が一致しなかった。もっと上にも、もっと下にも見えた。
「冬坂と申します」
女は何も言わなかった。
「三年前、芦原邦彦さんの——」
「知ってます」
声は低くもなく、震えてもいなかった。
「傍聴していました」
冬坂は、次に用意していた言葉を使えなくなった。
三年前、傍聴席にいた人がいることを、冬坂は知らなかった。知らなかったのではない。見なかった。証言台からは、傍聴席が視界に入る。入っていたはずだった。だが冬坂は、あのとき正面だけを見ていた。
***
「須賀沼敬一さんのことで、伺いたいことがあります」
「話すことはないです」
「五分で結構です」
「五分もないです」
澪は歩き出した。冬坂は並んで歩いた。追い越さないように、半歩下がった位置を保った。
箱は、彼女の歩調で少しも揺れなかった。
「柏木さんとは、どのようなご関係でしたか」
「聞いてどうするんですか」
「郷田実さんの弁護に必要です」
「あなた、弁護士じゃないですよね」
「鑑定人です。今週、外されました」
澪の足が、わずかに乱れた。乱れただけで、止まらなかった。
「じゃあ、何の権限もないんですね」
「ありません」
「じゃあ、なんで来てるんですか」
冬坂は答えなかった。
答えを持っていなかったわけではない。この人の父の映像を読んだのは自分だ、と言えばよかった。言えば、この人は足を止めたかもしれない。
言わなかったのは、それを言い訳に使うことになるからだった。詫びを口実にして話を聞き出す。三年間、そういうやり方をする人間を何人か見てきた。
澪は前を向いたまま歩いていた。バス停まで、あと二十メートルほどだった。
坂道だった。下りだが、傾斜はゆるい。箱を持っている人間の歩幅に、冬坂は合わせていた。
***
「須賀沼さんに、雇われていましたね」
澪は答えなかった。
「事務所の入退館記録に、週に三度から四度、お名前があります」
「記録があるなら、訊く必要ないでしょう」
「何をされていたかは、記録に出ません」
バス停に着いた。時刻表を見ると、次のバスは十四分後だった。
澪は立ったままだった。ベンチが横にあった。座らなかった。
ベンチは日向にあり、乾いていた。板の一枚だけが新しく、色が違っていた。
「使い走りです」
しばらくして、そう言った。
「書類を届けたり、取ってきたり。人に会って、封筒を渡すだけの日もありました」
「中身はご存じでしたか」
「見ないのが条件でした」
「柏木さんのところにも」
澪の呼吸が、一度止まった。
「行きました」
「何度」
「数えてません」
冬坂は、それ以上追わなかった。
***
「須賀沼さんは、どういう方でしたか」
「どういう、って」
「人柄です」
澪は初めて冬坂のほうを見た。
「あなた、あの人を庇った人がいるって思ってるんですか」
冬坂は、澪の目を見返した。
同じ問いを、拘置所でも訊いた。あのとき返ってきたのは、範囲を狭める答えだった。ここで返ってきたのは、問いだった。
「庇ったのは、須賀沼さんのほうだと考えています」
澪の顔から、表情が抜けた。
怒りでも、驚きでもなかった。ただ、そこにあったものが引いていった。
「須賀沼さんは、殴られたあともしばらく意識がありました。そのあいだに、あなたの痕跡を消した可能性があります」
「痕跡」
「あなたが現場にいた場合、それを示すものです」
バスが遠くに見えた。まだ二つ先の停留所だった。
澪は道路のほうを向いた。
「わたしがいたって、言いたいんですか」
「そうだとは言っていません。まだ、可能性の一つです」
「じゃあ、こう言えばいいですか」澪は言った。「わたしはいました。あの人は、わたしのことを消しました。だからあの人はいい人です。そう書けば、あなたの依頼人は助かるんですか」
「そうは書きません」
「なんで」
「事実かどうかを、確かめていないからです」
澪は、少し笑った。息だけの笑い方だった。
箱を持ち直しはしなかった。腕の位置は、来たときから変わっていない。
バスが近づいてきた。ウインカーの音が聞こえる。
「冬坂さん、って言いましたね」
「はい」
「わたし、あなたのこと、三年間ずっと思い出してました」
冬坂は動かなかった。
「父の手が、押した手だって言った人です。あなたは、そう言った。整合する、って」
「言いました」
「あの言い方、いまでも覚えてます。断定してないんですよ。整合する、って。あれで人が刑務所に入るんだって、わたし、あのとき初めて知りました」
冬坂は、詫びる言葉を持っていた。三年間、何度も組み立ててきた文だった。
出さなかった。
この人が言ったのは、詫びてほしいということではない。あの言い方を覚えている、と言っただけだ。詫びれば、こちらが楽になる。楽になった側が、その場を終わらせることになる。
バスが停まった。扉が開いた。
澪は乗らなかった。
扉が二秒開いていて、それから閉まった。バスが行った。
運転手はこちらを見なかった。乗らない人間がいることに、慣れているらしかった。
***
澪は、白い布の箱を持ち直した。
初めて持ち直した。腕の位置が、少しだけ上がった。
「一つだけ、言っときます」
「はい」
「あの人は、わたしを守ってなんかいません」
冬坂は、その言葉を受け取った。受け取ってから、意味を組み直そうとして、できなかった。
「あの人が消したのは、わたしじゃないです」
澪は歩き出した。バス停から離れて、来た道とは違うほうへ。
「じゃあ、何を」
澪は振り返らなかった。
「自分の持ち物です」
坂の下のほうへ、彼女は歩いていった。次のバスまで、まだ十分以上あった。歩いて降りるつもりなのか、別の停留所へ向かうのかは分からない。
冬坂は、その後ろ姿を見ていた。箱は、また揺れなくなっていた。




