第23話 持ち物
鵜沢は、須賀沼の事業記録を三日かけて洗った。
三日目の夜、机の上には帳簿の写しが十七冊分積まれていた。彼女は付箋を使わず、読み終えた頁の角を折っていた。折り目は、後ろの三分の一に集中していた。
積み方に順番はなかった。判型が揃っていないので、どう積んでも安定しない。いちばん上の一冊が滑りかけていた。彼女はそれを直さず、位置だけ少し戻した。
三日のあいだ、冬坂は別の作業をしていた。入退館記録の三年分を、名前ごとに数え直していた。数えても何も出ないことは分かっていた。それでも、鵜沢が帳簿を読んでいるあいだ、同じ部屋で何もしていないわけにはいかなかった。
数え直しは、三年分で百二十七枚あった。一枚に二十行。名前の欄は右から二番目で、手書きと印字が混ざっている。印字のほうが後の年だった。
冬坂は正の字を使わなかった。使うと、途中で数を見失ったときに戻れない。名前ごとに行を立てて、日付を書き並べる方式にした。時間はかかるが、あとから確かめられる。
二日目の夜に一度、合計が合わなくなった。最初から数え直して、同じ数になった。合わなかったのは数えたほうではなく、書き写したほうだった。
貸金の債権が四十一件。不動産の仲介が年に二十件前後。どちらも規模は小さい。ただ、債権のうち十一件が、通常なら回収不能として処理されるはずのものだった。
「五年前、七年前、九年前のもあるわ」
鵜沢は一覧を指した。
「利息も取ってない。督促の記録もない。放置してるだけ」
「なぜ残しているんでしょうか」
「消してないだけ、って考え方もあるけど」
鵜沢はペンの尻でデスクを二回叩いた。
「私は違うと思う」
「理由を」
「債権が残ってれば、いつでも取り立てられるでしょ。今はしない。それを相手に分からせるためよ」
冬坂は一覧を目で追った。
一覧は日付順ではなく、金額順に並んでいた。誰が作った並びなのかは分からない。須賀沼自身かもしれなかった。
十一件には、名前が十一あった。冬坂は上から順に読んだ。知らない名前ばかりだった。金額は百万から四百万のあいだで、どれも一円も返っていない。
この十一人は、いま生きている。取り立てられないまま、督促の来ない請求書を、たぶんどこかに持っている。
「郷田実さんの名前があります」
「あるわね。八年前の三百万。一円も返ってない」
「督促は」
「ゼロ」
冬坂は、その行から目を離さなかった。
細かいのを、ぽつぽつと。あの人はそう言った。言ったあとで、範囲を狭めた。
言っていないことが、ここにあった。
「先生」
「なに」
「郷田さんは、これを話していません」
「話すわけないでしょ。動機になるもの」
鵜沢はパンの袋を開けた。
「八年、頭を押さえられてたわけ。返せとも言われずに」
冬坂は、拘置所の板の傷を思い出した。同じ高さに走っていた、細い線を。
あの高さは、座った人間が手を置く高さだった。何度も、同じ場所に。
***
芦原澪の名前は、債権の一覧にはなかった。
代わりに、雇用の記録にもなかった。給与の支払い記録も、契約書もない。
「無いのよ、何も」鵜沢は言った。「週に三、四回も出入りしてて、金の記録がゼロ」
「現金でしょうか」
「それにしても帳簿に残るわ。あの人、几帳面よ。電子錠まで付けてるんだから」
冬坂は入退館記録を引き寄せた。
芦原。夕方に入り、夜に出る。滞在時間は平均二時間十分。
「先生。彼女は、雇われていなかったのかもしれません」
「使い走りしてたって、本人が言ったんでしょ」
「働いていました。ですが、給与という形ではなかった」
鵜沢が手を止めた。
「じゃあ、何と引き換えに働いてたの」
***
三年前の判決文には、被告人の家族の記載がある。
冬坂は箱から出したその一枚を、机に置いた。
芦原邦彦。当時五十四歳。妻は八年前に死別。長女、二十五歳。
そして、その下。
刑事補償に関する記載はない。有罪だからだ。
代わりに、民事の欄があった。被害者遺族との示談。金額は空欄。示談は成立していない。
空欄には斜線も引かれていなかった。書かれなかったのか、書けなかったのかは、書式からは分からない。
「示談が成立してないってことは」鵜沢が横から覗いた。「遺族に対する賠償が、残ってるわね」
「残ります」
「本人が死んでも」
「相続されます」
鵜沢はパンを置いた。
「娘さんに」
「相続放棄をしていなければ」
冬坂は判決文の日付を見た。芦原邦彦の死亡は一昨年の冬。放棄の期限は三か月。
「先生。放棄には、被相続人の債務を知っている必要があります」
「知らなかったら?」
「期限が過ぎます」
鵜沢は椅子を回して、書棚のほうを向いた。それから戻ってきた。
「教えなかったのね、誰かが」
「あるいは」冬坂は言った。「肩代わりを申し出た人間がいた」
***
鵜沢が確認するのに、二日かかった。
一日目、彼女は被害者の遺族に会いに行った。冬坂は事務所で待った。夕方に戻ってきて、コートも脱がずに「会えなかった」とだけ言った。二日目の朝、また出ていった。
昼過ぎに電話があった。声の背後に、駅の放送が入っていた。
「支払い、続いてるわ」
「いつからですか」
「一昨年の三月から」
「毎月ですか」
「十五日。金額は一定」
冬坂は、その日付を書いた。書いてから、電話が切れるまで、鵜沢が黙っていることに気づいた。
「先生」
「支払人の名義、須賀沼敬一よ」
控えは二年分あった。同じ書式が二十枚以上、日付だけを変えて並んでいる。十五日が休日に当たる月も、日付は十五日のままだった。
「肩代わりしてるわ」
「はい」
「そのかわり、あの子が働いてる」
「そうなります」
鵜沢は書面を見下ろしていた。
「返す義務のない金を、代わりに払ってあげて、恩を着せて、ただ働きさせてたわけね」
「彼女には、義務があると思わせていたはずです」
「思わせるって、簡単でしょ。判決文と請求書を並べて見せればいいんだから」
鵜沢は書面を裏返した。裏返す必要はなかった。
「これ、雇用じゃないわ」
「はい」
「首輪よ」
言ってから、彼女はしばらく黙っていた。それから、机の上の債権一覧をもう一度引き寄せた。郷田の行と、支払いの控えを、並べて置いた。
二つの紙は、書式が違うだけで、同じことを言っていた。
***
その夜、冬坂は映像をもう一度流した。
殴られてから意識を失うまで。電話をしない。声を出さない。上体を起こす。壁際の箱を動かす。何かを入れる。そして、その場所を二度確かめる。
これまで、この行動を「庇う」と読んでいた。
芦原澪が現場にいて、須賀沼がその痕跡を消したのだと。
だが澪は言った。あの人が消したのは、わたしじゃないです。自分の持ち物です、と。
冬坂は画面を止めた。
持ち物。
須賀沼にとって、彼女は資産だった。首輪は、書類でできている。判決文の写し。示談の記録。毎月の支払いの控え。それらが揃って初めて、彼女は繋がれている。
それが誰かの手に渡れば、彼女は自由になる。
須賀沼は、頭を割られて、意識を失うまでのあいだに、それを隠した。
助けを呼ばずに。
冬坂は椅子の背にもたれた。
あの三十秒に映っていたのは、他人を守る行為ではなかった。
自分のものを、失わないための行為だった。
画面の中で、須賀沼はまだ壁の下を見ていた。
二度。同じ場所を。
三度目に見たときとも、まだ違って見えた。同じ映像が、四度目にまた別のものになっている。
そして、その場所にあったはずの箱は、翌朝には元の位置に戻されている。
中身が入ったままだったのか、それとも。
冬坂は明かりを消さずに、部屋を出た。




