第24話 離反
都築は、電話に出なかった。
三日で六回かけた。四回目からは、呼び出し音が一度も鳴らずに留守番電話へ切り替わった。
冬坂は伝言を残さなかった。残す言葉を三度考えて、三度とも消した。
三度目は、途中まで吹き込んでから切った。録音されたかどうかは分からない。かけ直して確かめることも、しなかった。
三日のあいだ、冬坂は何度か、この男が電話に出ない理由を並べた。忙しい。怒っている。上から止められている。並べてから、どれであっても自分がしたことは変わらないと気づいて、並べるのをやめた。
七回目の夜、折り返しがあった。番号は公衆電話ではなく、都築の携帯だった。
「冬坂さん」
声が違っていた。低いのではない。平らだった。
「都築」
「用件だけ、言ってもらえますか」
冬坂は一拍置いた。
「現場保全の記録を見たい」
「無理です」
「二十三日の夜から二十四日の朝までに、あの路地に誰が入ったかを知りたい」
「無理ですって」
都築は言った。
「僕、明日、事情聴取なんで」
***
会ったのは、翌々日だった。
場所は前と同じファミリーレストランではなく、駅の反対側の、二十四時間営業のチェーン店だった。都築は窓際に座っていた。前は奥を選んだ男が、窓際にいた。
店は空いていた。四つ先の席で、学生が二人、教科書を広げたまま眠っている。
テーブルの上には何もなかった。ドリンクバーのグラスもない。
「座ってください」
冬坂は座った。
「処分ですか」
「まだです。調査中って言われました」
都築は両手をテーブルに置いていた。
動いていなかった。
「照会ログです」都築は言った。「名簿の閲覧記録。あれ、僕が見たのが残ってました。冬坂さんが請求を出したあと、僕が一次記録の書式を開いてる。回数が多すぎたみたいで」
冬坂は、都築の手を見ていた。
「なぜ言わなかった」
「言ったら、冬坂さん、僕に頼まなくなるでしょう」
窓の外を、タクシーが二台続けて通った。
「都築」
「はい」
「私は君を使った」
「使われました」
「断ってよかった」
「断れないの、知ってて頼んでますよね」
都築は初めて顔を上げた。
怒っている顔ではなかった。それが、冬坂には応えた。
この男に、自分は一度も礼を言っていない。庁舎の門の外でも、電話でも、言ったのは指示と質問だけだった。言えば負担になると思っていた。いま考えると、それは自分の側の理屈だった。
***
「一つだけ訊きます」都築が言った。「訊かないって決めてたんですけど」
冬坂は待った。
「冬坂さん、なんで辞めたんですか」
冬坂は答えなかった。
三年間、この男は訊かなかった。訊かないことが、彼の敬意の形だった。
訊いたということは、その形を自分から壊したということだった。
「三年前の事件で、私の証言によって有罪になった人がいます」
「知ってます」
「知っていたのか」
「調べました。三日前に」
都築は、テーブルの上で指を組んだ。組んだまま、動かさなかった。
「判決文、読みました。それから、庁内の記録も見ました。見ちゃいけないやつです」
「都築」
「照会ログ、十年保存なんですよ」
冬坂の視界が、一度だけ狭くなった。
「三年前の、あの事件の一次記録について、庁内照会が一件出てます。解析基準時刻の項目について、定義の確認を求めるっていう照会です」
都築は続けた。
「発信者、冬坂慧。日付は、証言の四日前」
店内の空調が、低く鳴っていた。
「その照会、取り下げられてます。二日後に。発信者本人が」
都築は顔を上げなかった。
「冬坂さん。僕、ずっと、冬坂さんは気づかなかったんだと思ってました。気づけなかった人が、それを恥じて辞めたんだと思ってました」
冬坂は何も言わなかった。
「そう思ってたから、僕、規則を破ってもいいと思ってたんです」
都築の手は、まだ動かなかった。
冬坂は、否定する材料を探した。探すという動作をしている自分に気づいて、やめた。
この男が三年間、自分に対して持っていたものが、いま目の前で形を変えている。何であったかを、冬坂はいままで言葉にしたことがなかった。言葉にしないほうが楽だった。
言葉にしないでいるうちに、それは使える道具になっていた。
窓の外で、信号が変わった。誰も渡らなかった。
***
伝票は、テーブルの端にあった。
都築はそれに手を伸ばさなかった。冬坂も伸ばさなかった。
「僕、もう連絡しません」
「分かった」
「冬坂さんが悪いんじゃないです。僕が勝手に思ってただけなので」
「そうではない」
「そうです」
都築は立ち上がった。椅子を戻した。テーブルの上には、直すものが何もなかった。
彼はグラスを並べ直すこともできず、ケーブルをいじることもできず、ただ立っていた。
白衣は着ていなかった。私服の都築を、冬坂は初めて見た。上着の裾に、洗って落ちきらなかった染みが小さく残っていた。
「あの、最後に」
「何だ」
「現場保全の記録、僕は見てません。見てないですけど」
都築は、窓のほうを向いた。
「あれ、再生記録課の権限で入ると、庁内の権限ログに残ります。開示請求では出ません。内部の記録なので」
「都築」
「でも、権限ログの存在自体は、規則の別表に書いてあります。別表の七です。あれは公開されてます」
冬坂は、その言葉の形を確かめた。
この男は、規則を破っていない。公開されている別表の番号を言っただけだ。
最後の一回だけ、破らなかった。
「都築」
「はい」
「ありがとう」
都築は、少しだけ笑った。困った顔の笑い方だった。前に見たのと同じ形だった。
「言われたかったのは、それじゃないんですけどね」
彼は歩いていった。自動ドアの前で振り返らなかった。
外は雨が降りはじめていた。都築は傘を持っていなかった。持っていないまま、駅のほうへ歩いていった。
濡れながら走るのでもなく、いつもの速さで歩いていた。
冬坂は座ったまま、それを見ていた。呼び止める言葉を探して、探しているあいだに姿が見えなくなった。
探していたのは言葉ではなかったのかもしれない。呼び止めて、何を言えばよかったのかが、いまも出てこない。
冬坂は、伝票を取った。
テーブルの上には、水滴の輪が二つ残っていた。都築の前には何も置かれていなかったはずだった。
冬坂はそれを見て、自分が二杯飲んだのだと気づいた。




