第25話 見落とし
庁内照会の記録は、開示されなかった。
鵜沢が請求を出し、四日で却下が届いた。内部の事務処理に係る記録であり、開示の対象に含まれない。文面は、トリアージのときとほとんど同じだった。
「同じ人が書いてるわね、これ」
鵜沢が却下通知を放った。紙が机の上を滑って、止まった。書式も、余白の取り方も、前のものと変わらない。
止まった位置で、紙は少しだけ斜めになっていた。冬坂は直さなかった。
「先生」
「なに」
「請求しなくても、確かめる方法があります」
鵜沢が顔を上げた。
「私が、思い出せばいいだけです」
鵜沢は何か言おうとして、やめた。やめたことに、冬坂は気づいた。気づいて、何も訊かなかった。
***
冬坂は、その夜、部屋の明かりをつけたまま床に座った。
段ボールは、まだ出したままだった。三年前の記録が、床に広がっている。あの夜に開けてから、片づけていない。片づける理由がなかった。
紙の上に、うっすら埃が乗りはじめていた。窓を開けていないのに、二週間でそうなる。
都築は言った。証言の四日前、庁内照会が出ている。解析基準時刻の項目について、定義の確認を求めるもの。発信者は冬坂慧。二日後に本人が取り下げている。
冬坂は目を閉じた。
目を閉じる必要はなかった。この男は、目を開けたままでも同じだけ思い出せる。閉じたのは、思い出す前に一拍置きたかったからだった。
三年前。十一月。庁舎の三階、記録室の端の席。
あの席は窓に近く、冬になると足元が冷えた。誰も座りたがらなかったので、いつも空いていた。だから使っていた。
椅子の高さが少し低く、机との差が合わなかった。合わせる方法はあったが、直さずに三年使った。
自分は一次記録の書式を開いていた。上から十二番目の欄。数字を転記する。医師の所見から。一四:五八。
その隣に、死亡推定時刻の欄がある。一五:二二。
二十四分。
冬坂は、そこで目を開けた。
覚えていた。
覚えていないと思っていた。三年間、あの日の記憶は、証言台に立った瞬間から始まっていた。だが違った。始まりはもっと前にあって、自分はそれを畳んで、後ろに置いていた。
二十四分。
あのとき、指が止まった。画面のカーソルが、二つの欄の間で点滅していた。
なぜ違うのか、と思った。
思った。確かに思った。
***
照会は、その日のうちに出した。
定型の文面だった。標記の項目について、定義および運用上の取扱いをご教示願いたい。それだけの、三行の照会。
三行を書くのに、二十分かかった。それも覚えている。書いては消し、具体的な事案の名前を入れかけて、削った。
削ったあと、送信の前に一度立って、給湯室で湯を汲んだ。戻ってから送った。そのあいだに考えを変えなかったことも、覚えている。
あのとき、自分は正しいことをしていた。二十分かけて三行を書き、湯を汲みに立ち、それでも考えを変えず、送った。この一連は、いま思い出しても、どこにも直すところがない。
返答は、二日後に来た。
冬坂は、返答の文面も覚えていた。
——照会の趣旨が不明確です。具体的な事案を特定したうえで、所属長を経由して再提出してください。
所属長を経由する。
それは、上申することを意味した。
冬坂は、その一行を読んだときのことを覚えている。記録室の、他に誰もいない時間だった。夕方で、窓の外はもう暗かった。
上申すれば、鑑定書の提出は遅れる。公判の期日は決まっている。延期を求める理由を、自分が説明することになる。まだ何も分かっていない状態で。二十四分という差が何を意味するのか、自分にも説明できない状態で。
そして、この差はほとんどの事案で生じない。多くは同じ値になる。今回はたまたま搬送に時間がかかっただけだ。
たまたま。
冬坂は、そう考えた。三年前の自分は、確かにそう考えた。
照会を取り下げた。
取り下げボタンを押した指の感覚まで、覚えている。押したあとで、画面に確認の表示が出た。はい、を選んだ。それも自分で選んだ。
表示が消えるまでに、一秒ほどあった。その一秒のあいだ、画面には何も起きなかった。
その一秒のことを、冬坂はいま、いちばん長く思い出している。二十分より長い。
***
冬坂は、床の上で動かなかった。
三年間、自分は誤読したのだと思っていた。映像を見て、両手の意味を読み違えた。技術者としての失敗だった。目が届かなかった。
違った。
目は届いていた。
届いていて、手を止めた。止めて、それから、続けた。
冬坂は、鑑定書の控えを取った。自分の字で書かれた一行。
——両手の動きは、押し出す動作と整合する。
この文を書いたとき、自分は二十四分の差を知っていた。知っていて、それが何を意味するかを確かめずに、整合する、と書いた。
断定はしていない。
三年間、その言い訳を使ってきた。断定はしていない、と。
冬坂は控えを置いた。
断定していないから逃げられる、と思って書いた文だった。逃げるために選んだ言葉だった。そして法廷は、それを断定として扱った。扱われることも、分かっていた。
誤読ではない。
見落としでもない。
見て、黙った。
それだけのことだった。
冬坂は、自分を許さないと決めようとした。決めようとして、それが何の役にも立たないことに気づいた。決めても、芦原邦彦は戻らない。決めなくても戻らない。決めるという行為は、自分の側だけで完結する。
だから、決めなかった。
代わりに残ったのは、あの一秒を思い出せるということだけだった。それは決意ではない。取り柄でもない。ただ、消えない。
拘置所で、郷田は板の傷を見ていた。あの人も、訊かれたことには答えていた。答える範囲を、自分で決めていただけだった。
冬坂は、その連想を止めなかった。止める理由が思いつかなかった。
***
窓の外で、雨が続いていた。
冬坂は立ち上がった。立ち上がって、部屋の中を一度歩いた。歩く用事はなかった。座っていられなかっただけだった。
台所で水を一杯飲んだ。飲んでから、飲みたかったわけではないと気づいた。
コップを流しに置いた。朝の皿の隣に、伏せずに置いた。
この三日、まともに食べていない。気づいたのは、皿が三日前と同じ一枚しかないことに目が行ったからだった。腹は減っていない。減っていないことのほうが、たぶん問題だった。
冬坂はそれ以上考えなかった。考えたところで、いま何かを食べる気にはならない。
三年前、自分は一つの判断をした。
いま何も分かっていない。分かっていないことを上に上げれば、面倒が起きる。この差は例外的なもので、たまたまだ。だから、置いておく。
置いておく。
その判断で、芦原邦彦は刑務所に入り、そこで死んだ。
冬坂は、机の上の紙を見た。三年前の一次記録。解析基準時刻の欄に、自分の字で書かれた数字。
そして、思った。
自分と同じ判断を、いま、誰かがしている。
十七年間、意識喪失推定時刻の欄に数字を書き続けてきた技師が、何百人といる。そのうちの何人かは、差に気づいたはずだ。気づいて、指を止めたはずだ。
そして、置いた。
たまたまだと考えて。面倒が起きると考えて。まだ何も分かっていないと考えて。
冬坂は、雨の音を聞いていた。
置いた人間が何百人いても、それは事故に近い。誰も悪くない、という話になる。
だが。
誰か一人でも、置いておくことを選び続けた人間がいるとしたら。
それは、事故ではない。




