第26話 空白の正体
規則の別表七は、公開されていた。
庁内の記録の保存年限を定めた表で、項目は九十を超える。冬坂はそれを印刷し、上から順に読んだ。
印刷すると七枚になった。行の高さが詰まっていて、指で押さえないと隣の行へ目が滑る。冬坂は定規を使わず、紙の縁を折って当てた。
保存年限は、一年から三十年まで幅があった。会議の議事録が三年、機材の点検記録が五年。何を長く残すかで、その組織が何を恐れているかが分かる。
三十年のものは二つしかなかった。どちらも人事に関する項目だった。
一年のものは十四あった。庁舎の設備、消耗品の受払、来庁者の記録。一年で消える記録の側に、人の出入りが並んでいる。三年前、自分が毎日通っていた記録も、この列のどこかで消えているはずだった。
六十一番目にあった。
——現場保全権限行使記録 保存年限十年
項目名の下に、括弧書きが添えられている。
——執行者、日時、場所、行使根拠を記録するものとする
冬坂はその行を、二度読んだ。一度目は項目として、二度目は文として。
執行者、と書いてある。組織ではない。人が書かれる欄がある。
***
「開示請求は通らないわよ」
鵜沢が言った。
「通りません」
「じゃあどうするの」
「存在することは、この表で証明できます」
冬坂は印刷した紙を机に置いた。
「保全の権限で現場に入った人間がいるなら、記録が残っている。それを裁判所に出させます」
「文書提出命令」
「はい」
鵜沢はペンを取り、また置いた。
「先生。それ、何を立証するために出すの」
「二十三日の夜から二十四日の朝までに、あの路地へ誰が入ったかです」
「入ってたとして、それが郷田さんの無罪にどう繋がるの」
冬坂は答えなかった。
鵜沢は待った。前と違って、催促しなかった。彼女はペンを持たず、腕を組みもせず、ただ座っていた。
「繋がりません」冬坂は言った。「郷田さんの無罪は、須賀沼が二十一時より前に殴られたという一点で立ちます。それ以外は要りません」
「分かってるのね」
「分かっています」
「で、それで勝てる?」
「勝てません」
「即答ね」
「はい」
「じゃあ、なんで出すの」
冬坂は、机の上の映像の静止画を見た。壁の下の、何もない一角。
「あの箱を、誰が戻したのかを知りたいからです」
鵜沢はしばらく黙っていた。それから、コートを取った。
「出すわよ」
冬坂は顔を上げた。
「先生」
「聞かないで。理由は言わない」
彼女はコートを着て、袖を直さなかった。
「あと、これで負けたら、あなたのせいだから」
冬坂は、その言い方に嘘があると思った。負けたときに責める相手を、この人はいつも自分に設定する。
だが、それは言わなかった。
この人にも、勝ち筋の外へ出る理由がある。何かは分からない。落とした事件があるのか、落とさせられた事件があるのか。三か月そばにいて、そこだけは一度も見せなかった。見せない人が、いま一度だけ線を曲げている。
冬坂は訊かなかった。訊けば、この人は答えるだろう。答えたあとで、答えたことを損だと思うだろう。
***
命令は、十一日後に出た。
一部認容だった。二十三日から二十四日にかけての、須賀沼事件現場に係る現場保全権限行使記録に限る。それ以外は却下。
書面が届いたのは、その四日後だった。
十五日間、冬坂は他の仕事をした。鵜沢が持ち込んだ別件の記録を読み、意見をまとめ、送った。名前は出さない形だった。その仕事のことは、あとで思い出せなくなった。
十五日は長かった。日ごとに何をしたかを、冬坂はいまでも順に言える。一日目は別件の記録を受け取り、三日目に読み終え、四日目から書きはじめた。六日目に送った。七日目から十五日目まで、することがなかった。
することがない日に、冬坂は現場へ二度行った。行っても何も変わっていない。タイルの色の変わった長方形が、少し薄くなっていた。日に焼けて、周りと近づいてきている。
二度目に行ったとき、飲食店の看板が新しくなっていた。外されていたほうの店に、別の名前が入っている。開店の準備をしている人が中にいた。冬坂は路地の入口に立ったまま、しばらくそれを見ていた。
覚えているのは、十五日のあいだに事務所の蛍光灯が一本切れ、鵜沢が脚立を出さずに机の上へ乗って替えたことだった。替えたあと、彼女は机の上の足跡を拭かなかった。
封筒は薄かった。鵜沢が開け、一枚だけの紙を引き出した。
冬坂は横から見た。
行は、一つしかなかった。
——十一月二十三日 二十三時四十分 第七管区管内 現場保全のため立入り 根拠:再生対象保全規程第四条
執行者の欄。
その欄だけが、黒く塗られていなかった。
***
鵜沢が読み上げなかった。冬坂も口に出さなかった。
紙の上に、名前があった。
二人はそれを見ていた。
事務所の電話が鳴った。三回で切れた。どちらも取らなかった。
「二十三時四十分」鵜沢が言った。「死亡から二時間半後ね」
「はい」
「実況見分は翌朝の何時?」
「七時二十分です」
「じゃあ、この人が入ったときは、まだ現場は手つかず」
「そうです」
鵜沢は紙を裏返さなかった。
「入って、何をしたと思う」
冬坂は、映像の静止画を思い出した。壁の下の、タイルがそのまま見えている一角。
「箱を戻しました」
「中身は」
「抜いてから戻したはずです」
「なんでそう思うの」
「戻す理由がそれしかありません」冬坂は言った。「箱をそのままにしておけば、位置がずれていることに誰かが気づきます。実況見分の写真に、動かされた箱が写る。そうなれば、須賀沼が動いたことが記録に残ります」
鵜沢の指が、机の上で止まった。
「須賀沼が動いた」
「はい」
「それが記録に残ると、まずいのね」
「まずいです。動いたということは、殴られてから時間があったということです。時間があったなら、映像が殴打の直後ではないことになる」
鵜沢は、紙をもう一度見た。
「この人、それを知ってたわけね。二十三日の夜の時点で」
「知っていたことになります」
「解剖も出てないのに」
「はい」
***
「須賀沼の持ち物は、この人が持っています」
冬坂は言った。
「判決文の写し、示談の記録、支払いの控え。芦原澪さんを縛っていたもの一式です」
「それを取りに入ったの」
「そうかもしれません。ですが、それだけなら、箱を戻す必要はありません」
冬坂は静止画を指した。指先は触れない。
「中身を取るだけなら、箱は戻さなくていい。戻したのは、須賀沼が動いた痕跡を消すためです」
「両方やったのね」
「両方です」
鵜沢はコートのポケットに手を入れ、何も出さずに抜いた。
「じゃあ、この人が須賀沼の持ち物を持ってて、なおかつ、須賀沼が動いた事実を隠したかった」
「はい」
「須賀沼の持ち物って、澪さんの首輪だけ?」
冬坂は答えなかった。
その問いは、まだ答えを持っていなかった。だが、形は見えていた。
須賀沼は制度の外の人間だった。その男が、なぜ意識喪失時刻のずれを知り得たのか。
柏木郁夫は制度の内側にいた。停止処分を受け、生活の時間が変わり、それでも再生の立会に入った。
その二人は、繋がっていた。
繋がっていたなら、須賀沼が持っていたのは、澪を縛る書類だけではない。
***
鵜沢は紙を封筒に戻した。戻してから、また出した。
「先生」
「はい」
「この記録、開示請求では出ないって言ったわよね」
「出ません。内部記録です」
「じゃあ、この人は、これが表に出るとは思ってなかった」
「思っていなかったはずです」
「なのに、消してないのよ」
冬坂は、紙の上の一行を見た。
執行者の欄。日時。根拠条文。全部が、規定どおりに書かれている。
規定どおりに、残されている。
「消せるでしょ、内部の記録なんだから」鵜沢が言った。「なんで消さなかったの」
冬坂は答えなかった。
この夜、答えを持たない問いが、二つになった。
一つは、なぜ消さなかったのか。もう一つは、なぜ自分がそれを知りたいのか。後者は、鵜沢に訊かれていない。訊かれていないので、答えなくて済んでいる。
訊かれれば、たぶん答える。隠しているわけではない。答えるための言葉が、まだできていないだけだ。
その言葉は、いつか自分で用意しなければならない。今夜ではない。今夜は、紙の上の名前のほうが先だった。
そして冬坂は、もう一つのことに気づいていた。
現場保全の権限を行使できる人間は、多くない。
箱の中身を持ち出し、権限ログを消さずに残し、翌日には妹に電話をかけて、映らないと告げた人間。
該当する者は、限られる。




