第27話 五度
名前は、二日間そこにあった。
冬坂は封筒を開けたまま机に置き、その一行を何度も読んだ。読むたびに同じだった。読み違えるはずがなかった。
執行者、皆瀬亮。
一日目は、その紙を裏返した。裏返しても、位置は覚えていた。
一日目に、冬坂は三つのことをした。買い物に出て、洗濯をして、鵜沢からの電話に出た。用件は別件の書面のことだった。話しているあいだ、机の上の紙のことは一度も出さなかった。鵜沢も訊かなかった。電話を切ってから、自分が普通に喋っていたことに気づいた。
二日目は、裏返さなかった。
二日目の夜、机の上のものを片づけた。紙だけを残した。片づける必要はなかった。手を動かす場所が、他になかった。
片づけながら、三年前の記録の束を、段ボールへ戻すかどうか迷った。戻さなかった。戻せば、この二日と同じことをまた繰り返すことになる。
***
三日目の朝、冬坂は自分の手帳を最初から繰った。
三か月分ある。須賀沼の件で書きはじめてからの記録だ。表紙の角が丸くなり、鞄の中で擦れて色が落ちている。前に使っていた手帳は、三年前の十一月で止まっていた。
冬坂は日付ではなく、名前で追った。
一枚目。法廷。別件の再生。異議は退けられた。退けたのは再生記録課の管理官だった。
立会人リストの開示。所属と資格は非開示。
柏木の資格照会。返上者に照会権はない。
一次記録の請求。係属中の案件のため開示できない。
トリアージの判定根拠。内部判断は開示の対象に含まれない。
五つの行は、それぞれ別のページにあった。日を置いて、間に別の用件を挟んで。だから一続きに見えなかった。
どの行も、書き方は同じだった。日付、場所、断られた内容。感想は書いていない。書く欄を作っていなかった。
冬坂は、五つの行だけを別の紙に書き写した。日付を落として、内容だけを縦に並べる。並べると、五行になった。
五行の紙を、しばらく見ていた。
三か月分の手帳が、五行になる。そのあいだに書いた他のことは、全部この五行へ向かっていた。向かっていたことに、いま気づいた。
冬坂はペンを置いた。
五回。
三か月のあいだ、自分は五回、同じ男に止められている。
一度も、不当な扱いを受けていない。五回とも規定どおりで、五回とも、後から検証して瑕疵がない。
だから気づかなかった。
冬坂は手帳を閉じた。閉じてから、机の上でそれを一度、角を揃えて置いた。
止められていたのではない。
毎回、その場所に立っていた。
***
「思い込みかもしれないわよ」
鵜沢は言った。事務所の午後だった。
「五回とも、あの人は窓口に出る立場でしょ。管理官が窓口に出ること自体は変じゃない」
「変ではありません」
「じゃあ」
「変ではないことが、五回続きました」
鵜沢はペンの尻でデスクを叩かなかった。手は動かさずに、冬坂を見ていた。
「先生。あの人は、一度も嘘をついていません」
「そうね」
「それがおかしいんです」
冬坂は封筒の紙を、机の中央へ滑らせた。
「三か月、私は制度に阻まれてきました。制度は顔を持ちません。ですが実際には、五回とも同じ顔をしていた」
「たまたまってこともあるでしょ」
「たまたまです」冬坂は言った。「三年前も、私はそう考えました」
鵜沢が黙った。
窓の外で、隣のビルの室外機が回っていた。この事務所で、何度も聞いた音だった。三か月前に初めて座ったとき、冬坂はそれを気に留めなかった。いまは、止まっている日のほうが分かる。
***
保存措置の指示権者の欄は、まだ非開示だった。
だが冬坂は、それをもう請求しなかった。
請求すれば、また四日か、あるいは十一日かかる。かかったあとで、灰色の帯を見ることになる。それは分かっていた。
あの網点の面を、もう一度、光にかざすことになる。
代わりに、日付を並べた。
二十三日、二十三時四十分。現場保全権限で立入り。執行者、皆瀬亮。
二十四日、保存措置。指示権者、非開示。
二十四日夕方、妹への電話。名乗りは「役所の方」。
二十八日、再生の執行。統括、再生記録課管理官。
三行目は、あの夜に書きかけてやめた行だった。いまは書ける。書けるようになるまでに、ひと月かかっている。
「同じ人ね」
鵜沢が言った。
「証明はできません」
「証明しなくていいわ。私が言ってるのは、そう考えると全部説明がつくってこと」
冬坂はうなずかなかった。
「先生。逆です」
「逆?」
「全部説明がつくから、そう考えたのではありません」冬坂は言った。「一つだけ、説明がつかないことがあります」
鵜沢が眉を上げた。
「あの権限ログです」
***
「消せたはずなんです」
冬坂は封筒の紙を指した。指先は触れない。
「庁内の内部記録です。開示請求では出ません。文書提出命令が出なければ、誰の目にも触れません」
「出たじゃない」
「出るとは思っていなかったはずです。私も、別表七を教えられるまで知りませんでした」
鵜沢はコートの襟を直した。
「じゃあ、油断してたのよ」
「油断していたなら、行使根拠まで書きません」
冬坂は一行を読み上げた。
「現場保全のため立入り。根拠、再生対象保全規程第四条」
鵜沢が黙った。
「証拠を回収しに行った人間が、その立入りに法令上の根拠を付して記録に残しています。日時も、場所も、自分の氏名も」
「……几帳面すぎるわね」
「几帳面ではありません」
冬坂は紙を裏返した。裏は白かった。
「この人は、記録に手を入れていません。一度も」
鵜沢が椅子を回した。回してから、戻した。
「殺してるのよ、その人」
「殺しています」
「人を殺しておいて、書類は正確に書いたって言うの」
「そう見えます」
鵜沢は何か言いかけて、やめた。やめたあとで、机の端の菓子パンの袋を引き寄せ、開けずに元へ戻した。
冬坂は、三年前の自分の一次記録を思い出した。
解析基準時刻、一四:五八。死亡推定時刻、一五:二二。
自分もあの欄に、正確な数字を書いた。
二十四分の差を、そのまま残して。
残したから、三年後にそれを見つけられた。見つけられたことを、都合よく思いたくなかった。あの数字を残したのは誠実さではない。書式がそう作られていて、書かないという選択肢がなかっただけだ。
この男も、たぶん同じだ。
***
その夜、冬坂は再生記録課の庁舎の前まで行った。
中に入るつもりはなかった。開示請求も、面会の予約もない。
電車を降りてから、遠回りをした。裁判所の正面を通り、まっすぐ行けば五分の道を、十五分かけて歩いた。理由は自分でも分からなかった。
裁判所の正面は、この時間には閉まっている。門の内側の照明だけが点いていて、掲示板の白い紙が四枚、光を返していた。何が書かれているかは、外からでは読めない。
二十時を過ぎていた。庁舎の窓は半分ほど明かりが残っている。二階の、開示請求の窓口の窓も、点いていた。
玄関の脇に、自動販売機が一台ある。三年前もあった。中身の並びまで同じだった。
冬坂は歩道に立っていた。
三か月前、初めてここへ来た日、自分は映像を疑っていた。次に手続を疑い、制度を疑い、そして自分自身を疑った。
どの段階でも、目の前にはあの男がいた。
毎回、正しいことを言った。
冬坂は、窓を見上げた。
人影が一つ、横切った。急いでいない歩き方だった。窓の下端で肩の高さが切れ、二歩か三歩で見えなくなった。
誰であるかは分からない。あの階には十数人が勤めている。
自分がもし辞めていなかったら、いまもあの階のどこかにいた。二十時に窓の内側を歩いて、外に立っている人間のことは知らないままで。
辞めたから、いま外にいる。外にいる自分のほうが正しいと、冬坂は思わなかった。三年前に辞めたのは、正しさのためではなかった。
冬坂は、そこで初めて、自分が三か月間ずっと見ていたものの形が変わるのを感じた。
壁だと思っていた。
壁ではなかった。
立っていたのだ。ずっと、同じ場所に。




