第28話 正当化
面会の申込みは、規定の様式で出した。
用件の欄に、冬坂はこう書いた。
——十一月二十三日二十三時四十分の現場保全権限行使について
回答は翌日に来た。承諾。日時は指定されていた。翌々日の十七時三十分。場所は庁舎二階の面談室。
冬坂は、その速さを見た。
***
面談室には、机が一つと椅子が二脚あった。
皆瀬は先に来ていた。制服のままだった。冬坂が入ると立ち上がり、それから座った。
「お座りください」
冬坂は座った。
机の上には何もなかった。皆瀬は書類を持ってきていない。
「本日は、記録として残しますか」
「どういう意味でしょうか」
「面談の記録です。ご希望があれば作成し、写しをお渡しします」
冬坂は少し黙った。
「残してください」
「承知しました」
皆瀬は上着のポケットから小型の録音機を出し、机の中央に置いた。両手だった。角は揃えようがなかったが、彼は本体の向きを机の縁と平行にした。
「開始します」
***
「十一月二十三日、二十三時四十分。現場保全権限に基づき、須賀沼敬一の死亡現場へ立ち入られていますね」
「立ち入りました」
「目的を伺えますか」
「現場の保全です」
「具体的には」
「再生対象の状態に影響を及ぼしうる要素の確認と、必要な措置です」
冬坂は一拍置いた。
「壁際の金属製の箱を、動かされましたか」
「動かしました」
冬坂は、皆瀬の顔を見た。
何も変わっていなかった。
「元の位置に戻されましたか」
「戻しました」
「中身は」
「回収しました」
「記録には残っていません」
「領置の手続は取っておりません」
「なぜでしょうか」
「領置の対象となる物件ではないと判断したためです」
冬坂は机の上に手を置かなかった。膝の上で組みたくなったが、やめた。
「管理官。それは、証拠を持ち去ったということです」
「そのように評価される可能性はあります」
皆瀬は否定しなかった。
***
「須賀沼敬一を殴ったのは、あなたですか」
冬坂は訊いた。
皆瀬は、録音機を見なかった。
「その質問には、お答えできる立場にありません」
「立場ではなく、事実を伺っています」
「事実についての質問であっても、当課の立場から申し上げられることには限りがあります」
「二十三時四十分に現場へ入った理由を、もう一度伺います」
「現場の保全です」
「保全すべき状態とは、何でしたか」
皆瀬は、初めて少し間を置いた。
冬坂は待った。
「箱の位置がずれておりました」皆瀬は言った。「実況見分の際、それが記録されれば、被害者が受傷後に移動したという推定が生じます」
「生じますね」
「その推定は、再生映像の時刻に関する誤解を招きます」
「誤解」
「はい」
「どちらが誤解でしょうか」
皆瀬は答えなかった。
冬坂は続けた。
「再生映像は、意識喪失の直前三十秒です。死亡直前ではありません。これは誤解ではなく、事実です」
「そのとおりです」
あっさりと、皆瀬は認めた。
冬坂は、自分の呼吸が一度浅くなったのを感じた。
「いつからご存じでしたか」
「十四年前からです」
***
「十四年前、当課は運用上の照会を受けました」皆瀬は言った。「解析基準時刻と死亡推定時刻の乖離について、複数の技師から」
「複数」
「その年だけで七件です」
「対応は」
「書式の項目を分離しました。解析基準時刻の欄と、死亡推定時刻の欄を別に設けました」
冬坂は、三年前に自分が数字を書いた欄を思い出した。
上から十二番目。その隣。
「それは、隠したことになりませんか」
「隠しておりません」皆瀬は言った。「両方の欄を、全ての一次記録に残しております。十四年分です。誰でも並べることができました」
「誰も並べませんでした」
「はい」
「並べないことを、見込んでおられましたか」
皆瀬は、そこで初めて冬坂を正面から見た。
「見込んでおりました」
***
録音機の赤いランプが点いていた。
冬坂は、それを一度見てから、視線を戻した。
「須賀沼敬一は、そのことを掴んでいましたね」
「掴んでおりました」
「柏木郁夫から」
「柏木は、当課の記録を外部へ持ち出しました。停止処分の理由はそれです」
「処分は非公開でした」
「非公開です。ですが、いま申し上げております」
皆瀬は、机の上で指を軽く組んだ。
「須賀沼氏の要求は、金銭ではありませんでした」
「では」
「過去の判決について、当課が誤りを認めることでした」
冬坂は動かなかった。
「何件でしょうか」
「乖離が十分を超える事案は、十四年間で八十一件です」
部屋の空気が、少し重くなった気がした。実際には何も変わっていない。
「そのうち、有罪判決に至ったものは」
「二十九件です」
「その二十九件の再生記録に、承認印を押したのは」
「私です」
冬坂は、その言葉が出てくるまでの時間を数えていた。
一秒もなかった。
***
「管理官。あなたは、二十九人を」
「二十九件の判決が誤っていたとは申しておりません」皆瀬は言った。「乖離があったというだけです。乖離があっても結論が変わらない事案が大半です」
「大半」
「はい」
「全てではない」
「全てではありません」
冬坂は、机の縁を指で押した。押していることに気づいて、手を引いた。
「なぜ、公表しなかったのですか」
皆瀬は答えなかった。
初めての沈黙だった。三か月のあいだ、この男が黙ったのを、冬坂は見たことがなかった。
やがて、皆瀬は口を開いた。
「公表すれば、再生映像の証拠能力そのものが揺らぎます」
「揺らぐべきです」
「揺らげば、十七年分の判決が争われます。二十九件ではありません。二千件を超えます」
「誤っていた事案があるのなら」
「誤っていない事案のほうが、圧倒的に多い」
皆瀬の声は、大きくならなかった。
「冬坂さん。制度は、正しさで動いておりません。信頼で動いております。信頼が失われれば、正しかった判決も一緒に崩れます。崩れた後に残るのは、誰も裁かれない社会です」
「二十九人を、そのために」
「二十九件のうち、実際に誤っていたのが何件かは、誰にも分かりません」
皆瀬は言った。
「分からないまま、置いておくことを選びました」
***
冬坂は、そこで動けなかった。
置いておく。
三年前、自分が使った言葉と同じだった。誰にも言っていない。手帳にも書いていない。頭の中でだけ使った言葉だった。
「須賀沼氏は、それを公にしようとしました」皆瀬は続けた。「柏木も同じです。二人とも、制度の外から制度を開こうとしました」
「だから」
「そのように評価される可能性はあります」
三度目の、同じ言い回しだった。
冬坂は、机の上の録音機を見た。
「管理官」
「はい」
「あなたは、いま自白していますか」
「しておりません」皆瀬は言った。「私は、事実について聞かれたことにお答えしております」
冬坂は、その一人称に気づいた。
三か月間、この男は一度も「私」と言わなかった。当課、と言った。制度上、と言った。立場上、と言った。
いま、二度言った。
***
「冬坂さん」
皆瀬が呼んだ。
「はい」
「三年前、あなたは庁内照会を出しておられます」
冬坂は動かなかった。
「解析基準時刻の定義について。返答は、所属長を経由して再提出するようにというものでした。二日後、あなたは取り下げておられます」
「……ご存じでしたか」
「照会は当課で受けます。返答を起案したのは私です」
部屋の中で、何かが小さく鳴った。空調だった。
「あなたも、上申しませんでした」
冬坂は、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えが、一つしかなかったからだ。
「しませんでした」
「理由を伺ってもよろしいですか」
「面倒が起きると思いました」
「私も同じです」
皆瀬は言った。
「私も、面倒が起きると思いました。十四年間、毎年そう思いました」
***
冬坂は立ち上がった。
立ち上がってから、まだ話が終わっていないことに気づいたが、座り直さなかった。
「管理官。私は、これを法廷に出します」
「どうぞ」
「あなたの言葉は、記録に残っています」
皆瀬は録音機を止めた。それから、写しを作りますので少々お待ちください、と言った。
彼は立ち上がり、机の縁と平行に置かれていた録音機を取り上げた。
「冬坂さん」
「はい」
「一つだけ、申し上げておきます」
皆瀬は、扉に手をかけた。
「私が須賀沼氏を殴ったかどうかを、あなたは立証しなければなりません」
「はい」
「そして、あなたにはもう、映像がありません」
扉が開き、閉まった。
冬坂は、誰もいない面談室に立っていた。
机の上には、何も残っていなかった。




