第29話 映像のない立証
録音の写しは、その日のうちに渡された。
庁舎の受付で渡された。封筒には何も書かれておらず、受領の署名だけを求められた。手続きは三分で終わった。
署名の欄は、上に四人分の名前が並んでいた。この日、同じように何かを受け取った人が四人いる。冬坂は五人目だった。
鵜沢は事務所でそれを二度聞いた。二度目は、途中で止めては戻し、また進めた。聞き終わって、彼女は何も言わずに立ち上がり、窓を開けた。冬坂は止めなかった。外の音が入ってきた。車と、どこかの工事と、鳥の声が一つ。
「使えないわ」
鵜沢が言った。
「使えませんか」
「使えるところと、使えないところがある」
彼女は窓を閉めた。
「乖離の話、八十一件、二十九件。ここは使える。証拠能力の争いには効くわ。でも」
鵜沢は椅子に戻った。
「殴ったかどうかは、一言も言ってない」
「言っていません」
「箱を動かしたのも、回収したのも、認めてる。でもそれは、保全の権限でやったって説明がついてるの。違法か適法かは争えるけど、殺人にはならない」
「なりません」
「あの人、全部答えてるのに、いちばん大事なところだけ答えてない」
鵜沢はペンを取り、机の上で二度回した。
「訊かれたことには答える、って言ってたわね」
「言いました」
「訊かれてないことは答えない。訊けないことは、答えなくていい」
鵜沢はペンを置いた。
「頭のいいやり方よ、これ」
「頭の良し悪しではないと思います」
「じゃあ何」
「習慣です」
鵜沢は少しだけ黙った。
「そのほうが、たちが悪いわね」
***
「材料を並べます」冬坂は言った。
彼は三枚の紙を机に置いた。
「一。権限ログ。二十三日二十三時四十分の立入り。執行者は皆瀬亮」
「あるわね」
「二。面談の録音。乖離を十四年前から把握していたこと。二十九件の承認者が本人であること」
「あるわ」
「三。三年前の一次記録。私が書いたものです」
鵜沢は三枚目を見た。
「それ、あなたが持ち出したやつでしょ」
「持ち出しました」
「出したら、あなたが処分されるわよ」
「されます」
鵜沢はしばらく黙っていた。
「三つとも、皆瀬が殺したことを示してない」
「示していません」
「動機は示せる。機会も示せる。でも、殴った証拠がない」
「ありません」
鵜沢はコートの襟に手をやった。
「先生。うちの依頼人、郷田さんよ」
「はい」
「郷田さんの無罪に、皆瀬の有罪は要らないの」
「要りません」
「二十一時より前。それだけ。それを言えば終わり」
「終わります」
鵜沢は言葉を切って、冬坂を見た。
「なのに、あなたは終わらせたくない」
***
二人はしばらく黙っていた。
電話が鳴りはじめ、三回で切れた。鵜沢は取らなかった。
「終わらせます」冬坂は言った。
鵜沢が顔を上げた。
「郷田さんの弁護は、二十一時より前という一点で終わらせます。皆瀬のことは、その後です」
「その後って、いつよ」
「分かりません。ですが、公判では出しません」
「出さないの」
「出せば、争点が増えます。争点が増えれば、審理は延びます。郷田さんは勾留されています」
冬坂は、それを数字で言わなかった。言えば、鵜沢は日数を数えるだろう。数えられる形にしたくなかった。
鵜沢は椅子の背にもたれた。もたれてから、まっすぐ座り直した。
「あなた、そんなこと言う人だった?」
「三年前は言いませんでした」
「三年前は、依頼人に会ってないでしょ」
冬坂は答えなかった。
三年前、証言台に立つまで、被告人の顔を見たことがなかった。記録の中の人だった。会っていれば違ったのかどうかは、いま考えても分からない。
アクリル板の向こうで、膝の上に手を置いていた人のことを思った。あの高さを、自分は覚えている。
***
問題は、須賀沼がいつ殴られたかを、どこまで示せるかだった。
映像は使えない。須賀沼のものは既に再生済みで、内容は変わらない。柏木のものは永久に存在しない。
「解剖所見です」冬坂は言った。「左後頭部の硬膜下血腫、出血量と血腫の厚さ。打撃と同時に意識を失った所見ではありません」
「何分前か、出せるの」
「分単位では出せません。ですが、受傷後に意識のある時間があったことは示せます」
「意識喪失時刻は二十一時ちょうど。郷田さんのアリバイも二十一時まで」
「検察のいう、店を出た後の犯行とは両立しません」
鵜沢は指を折った。
「必要なのは、鑑定医の証言ね」
「はい」
「あなたじゃなくて」
「私は鑑定人を外されています」
鵜沢はペンを取り、書きはじめた。
「医師を立てるわ。その人に逆算をやらせる。あなたは表に出ない」
「それでいいです」
「よくないでしょ」鵜沢の手は止まらなかった。「三か月やって、最後に名前が出ないのよ」
冬坂は答えなかった。
答える前に、一つ確かめたことがあった。名前が出る形を、自分はまだ望んでいるだろうか。
望んでいた。すぐに分かった。三年前に出た名前と、同じ欄に、今度は別の意味で載る。それを望んでいないと言えば嘘になる。
だが、望むことと、そうすることは別だった。名前が出れば、争点が増える。増えれば延びる。延びれば、あの人は板の向こうで待つことになる。
冬坂は、望みのほうを置いた。
「出なくて構いません」
「本当に?」
「本当です」冬坂は言った。「三年前は、名前が出ました」
鵜沢の手が、そこで一度止まった。すぐにまた動きはじめた。
置いた、と冬坂は思った。また同じ言葉を使っている。
三年前に置いたものと、いま置いたものは、種類が違う。三年前は面倒を置いた。今度は望みを置いた。違うと言えるかどうかは、自分では決められない。決められないまま、置いた。
***
鵜沢は、そこで初めて手を止めた。
「もう一つある」
「はい」
「意識喪失時刻が二十一時ちょうどだって、誰が証明するの」
冬坂は答えなかった。
「一次記録は非開示。解析基準時刻は判定書の表紙にしか出てない。あれ、証拠として採用されてる?」
「されています。判定書全体が、検察側の証拠として提出されています」
「表紙の数字も?」
「数字は印字されています。ただ、その数字が何を意味するかは、書かれていません」
鵜沢はペンを置いた。
「解析基準時刻の定義を、誰かが法廷で言わないといけないわね」
「はい」
「再生記録課の人間しか言えない」
「言えません」
「あの人が言うわけないでしょ」
冬坂は、机の上の三枚を見ていた。
「言います」
「なんで」
「訊かれたことには、答える人だからです」
鵜沢は冬坂を見た。しばらく見てから、書面に戻った。
「賭けよ、それ」
「賭けです」
「外れたら?」
「外れません」
冬坂は、そこで初めて断定した。断定したことに、自分でも遅れて気づいた。
三年前に一度、断定を避けた男が、証拠のないことを断定していた。それも覚えておこうと思った。
***
鵜沢が出ていった後、冬坂は事務所に残った。
外はもう暗い。電話が二度鳴って、二度とも切れた。
二十二時を過ぎたころ、階段を上ってくる足音がした。
一つだった。ゆっくりではなかった。
この建物のエレベーターは、夜になると動きが遅くなる。四階まで待つより、階段のほうが早い。それを知っている人間の速さだった。
扉が開いた。
芦原澪が立っていた。
黒っぽいコート。肩に届かない髪。手には、封筒を一つ持っていた。
「鵜沢先生は」
「出ています」
澪は入ってきた。扉を閉めた。
椅子は、すぐ横にあった。
彼女は座らなかった。
「これ」
封筒を、机の上に置いた。冬坂の正面ではなく、机の端に。
「何でしょうか」
「柏木さんの部屋にあったものです」
冬坂は封筒を見た。触らなかった。
「柏木さんの部屋は、引き払われています」
「引き払ったのは、わたしです」
冬坂は顔を上げた。
「柏木さんが見つかる、一週間くらい前です。水曜の夜中に、軽トラを借りて、知り合いに手伝ってもらいました」
「なぜ」
「柏木さんが、そうしてくれって言ってたので」
澪は、封筒から手を離した。
「もし自分に何かあったら、部屋を空にしてくれって。一年以上前に、そう言われました」
「そのとき、どう思われましたか」
「変なことを言う人だと思いました」
澪は言った。
「それだけです。深く考えませんでした」
冬坂は、封筒を見ていた。
「中身をご覧になりましたか」
「見ました」
「何が」
澪は答えなかった。
答えない、といういつもの答え方ではなかった。言葉を探している顔だった。
「わたしの名前が、たくさん書いてありました」
冬坂は立ち上がった。
「芦原さん」
「座ってください」
澪は言った。
「あなたが立つと、話しにくいので」
冬坂は座った。
澪は、立ったままだった。




