第30話 証人
封筒の中身は、二種類あった。
一つは、写しの束だった。三年前の判決文。示談が成立しなかったことを示す書面。毎月十五日の支払いの控え。全部で四十枚ほど。
もう一つは、庁内の書式だった。一次記録の写しが十九枚。どれも同じ欄に、二つの時刻が並んでいる。
冬坂は、二枚目の束を先に見た。
紙質が違っていた。四十枚のほうはコンビニの複写機で取ったもので、十九枚のほうは庁内の用紙だった。柏木は、外へ持ち出すときに写しを取らなかった。原本のほうを持ち出している。
十九枚には綴じ穴がなかった。綴じる前の段階で抜かれたということだった。
「これは、柏木さんが」
「持ち出したんだと思います」澪は言った。「わたしは運んだだけです」
「運んだ先は」
「須賀沼さんです」
***
「わたし、中を見ないのが条件でした」
澪は言った。立ったままだった。
「でも、一度だけ見ました。柏木さんが封をしていない日があって」
「いつですか」
「一昨年の十二月です」
澪は、机の端に置いた封筒を見ていた。
「そこに、父の名前がありました」
冬坂は、動かなかった。
「一次記録っていうんですか、あれ。父の事件のもので、時刻が二つ書いてあって、数字が違ってました」
「二十四分」
「知ってるんですね」
「知りました。先月です」
澪は、初めて冬坂を見た。
「わたしは、一昨年から知ってます」
冬坂は、その一年を数えなかった。数えれば、何かを計算していることになる。
それでも、頭のどこかは数えていた。この人は一年、あの数字を持ったまま生活していた。持ったまま、須賀沼の事務所へ週に三度通っていた。
一年。冬坂は、その長さを自分の側の単位に置き換えられなかった。先月からの一か月なら、数えられる。三十日と少し。一年も、数えれば数字になる。数字にすると、嘘になった。
***
「須賀沼さんに、訊きました」澪は言った。「これは何ですかって」
彼女は、コートのポケットに手を入れなかった。腕を下げたままだった。
「あの人、笑って、こう言いました。君のお父さんは運が悪かったね、って」
「それだけですか」
「それから、もう一つ言いました」
澪は、少し息を吸った。
「これがあれば、もっといい暮らしができるよ、と」
冬坂は、その言葉の形を確かめた。
いい暮らし、と言った。誰の暮らしのことかを、あの男は言わなかった。
「あの人は、父の記録を、金に換えるつもりでした」澪は言った。「わたしのためじゃないです。一度もそんなことは言われてません」
「あなたは、それを止めましたか」
「止めてません」
澪は言った。
「止めたら、支払いが止まるので」
その言い方に、言い訳の響きはなかった。事実を並べる言い方だった。冬坂の話し方に、少し似ていた。
似ていることに、冬坂は気づいた。気づいて、それを口に出さなかった。この人が自分に似ているとしたら、似せたのは自分ではない。三年前の一行が、この人の話し方を決めた可能性がある。
***
電話が鳴った。三回で切れた。誰も取らなかった。
「二十三日の夜、あの路地にいましたね」
冬坂は訊いた。
澪は答えなかった。
「二十時五十分ごろ、事務所の裏へ行かれた」
「……電子錠の記録には出ません」
「表からは入っていませんね。裏の路地は、記録に残りません」
澪は、机の端の封筒に手を伸ばしかけて、やめた。
「あの人が、来いって言ったんです。夜に電話があって、九時ごろに裏に来いって」
「その電話は、何時ごろでしたか」
「八時過ぎだったと思います」
冬坂は、それを書き留めなかった。
須賀沼の携帯に残っていた最後の記録は、二十時十二分の着信だった。非通知。二十二秒。須賀沼が受けたほうの記録だった。この人へかけたのは、それより前になる。
同じ夜に、須賀沼へかけた人間が、別にいたことになる。
いま確かめる必要はなかった。
「行かれましたか」
「行きました」
「何時ですか」
「五十分より少し前です。バスを降りた時間を覚えてるので」
冬坂は、膝の上で手を組まなかった。
「そのとき、須賀沼さんは」
澪の口が、少し動いた。声が出るまでに、時間がかかった。
「倒れてました」
***
「生きてましたか」
「生きてました」
冬坂は、それ以上訊かなかった。
澪は続けた。訊かれなかったから、続けた。
「わたし、救急車を呼ぼうとしました。携帯を出したんです。そしたら、あの人が」
彼女は、そこで言葉を切った。
「呼ぶな、って言いました」
窓の外で、車が一台通った。
「帰れ、って。何も持たずに帰れって。そう言われました」
「それで」
「帰りました」
澪は、まっすぐ立っていた。
「わたし、あの人が死ぬと思わなかったんです。頭から血が出てたけど、喋ってたので。あんなに喋る人が死ぬとは思わなくて」
冬坂は何も言わなかった。
「次の日に、死んだって聞きました」
澪の手が、ようやく動いた。コートの裾を、一度だけ握った。
「わたしが呼んでいたら、助かってたと思いますか」
冬坂は、一拍置いた。
言葉を選び直したのではなかった。選ぶ言葉が、一つしかなかった。
「分かりません」
澪は、うなずいた。
「そう言われると思ってました」
「慰めを言うこともできます」
「言わないでください」
「言いません」
言わないでください、と言われて、冬坂は少し楽になった。楽になったことが、その場でいちばん恥ずかしかった。
この人は、こちらが差し出そうとしたものを先に断った。断ってくれたから、こちらは持たずに済んだ。三年前と同じだ。断定を避けて、判断を法廷に預けた。今度は、慰めを避けて、それをこの人に預けている。
***
鵜沢が戻ってきたのは、二十三時前だった。
扉を開けて、澪を見て、それから冬坂を見た。何も訊かずにコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。
三十分かけて、鵜沢は全部聞いた。途中で一度も口を挟まなかった。メモも取らなかった。
聞き終わって、彼女は言った。
「証人に立ってもらいたいわ」
「先生」冬坂が言った。
「二十時五十分より前に倒れてた。それを見た人がいる。これ以上の証拠はないの」
「彼女は現場にいました」
「いたわね」
「証言すれば、彼女自身が疑われます」
「疑われるでしょうね」
鵜沢はコートを取り、また椅子にかけた。同じ場所に。
「でも勝てるわ」
冬坂は立ち上がった。
「先生。彼女には、須賀沼を殺す動機があります。書類を取り返すという動機です。検察はそこを突きます」
「突くわね」
「証言台に立てば、彼女は次の被告人になり得ます」
「なり得るわ」
鵜沢は冬坂を見た。
「先生、あなた、いま何を守ってるの」
冬坂は答えなかった。
答えは分かっていた。三年前には持っていなかった答えだった。
三年前、自分は証言台で人を一人、記録の中の人として扱った。名前と、映像と、両手の動き。それだけで足りると思っていた。足りると思えたのは、その人が目の前にいなかったからだ。
いまは、目の前にいる。
***
「わたしが決めます」
澪が言った。
二人が振り返った。
彼女は、机の横の椅子を見た。ずっとそこにあった椅子だった。
澪は、それを引いた。脚が床を擦る音がした。
そして、座った。
冬坂は、その動作を見ていた。庁舎の待合で、椅子が横にあるのに立ったまま署名した女と、同じ人だった。
座った高さは、思っていたより低かった。この椅子は座面が沈む。三か月のあいだ、冬坂が毎回そこに座ってきた。
「証言します」
澪は言った。
「先に言っておきますけど、あなたのためじゃないです」
彼女は冬坂を見ていた。
「郷田さんって人のためでもないです。会ったこともないので」
「では」
「わたしのためです」
澪は、机の上の封筒に手を置いた。
「あの書類、まだどこかにあるんですよね。あの人が隠して、誰かが持っていったやつ」
「あります」
「あれがある限り、わたし、ずっとあの人の持ち物のままです。死んでるのに」
彼女は封筒を押した。冬坂のほうへ、机の中央を越えて。
「法廷で全部言えば、隠す意味がなくなります」
鵜沢が、初めて口を開いた。
「あなた、疑われるわよ」
「疑われます」
「刑務所に入るかもしれない」
「父も入りました」
澪は言った。それは強がりの声ではなかった。
「入って、出られませんでした。わたしは、少なくとも自分で選んで入ります」
鵜沢はそれ以上、確かめなかった。確かめれば、決意を試すことになる。この人はそういうことをしない、と冬坂は知っていた。
***
鵜沢は書類を作りはじめた。四十枚の束は、彼女がすでに手元へ引き寄せていた。
冬坂は封筒から十九枚を抜き、数え直した。数える必要はなかった。数えていないと、手が落ち着かなかった。
空になった封筒を、机の端へ戻した。澪はそれを取り、コートのポケットに入れた。
澪が立ち上がった。椅子は、引いたままにしていった。
扉のところで、彼女は振り返った。
「冬坂さん」
冬坂は顔を上げた。
斎場でも、さっきも、この人は自分を「あなた」と呼んだ。名前で呼びかけられたのは、初めてだった。
「はい」
澪は、何か言おうとして、やめた。
「いえ」
彼女は言った。
「やっぱり、いいです」
扉が閉まった。
階段を降りる足音が、下まで続いて、それから聞こえなくなった。
冬坂は、十九枚を揃えた。角を、一度だけ。
言われなかった言葉が何であったかを、冬坂は考えなかった。考えれば、また補うことになる。写っているものを見て、写っていないものを補う。三年前にやったのは、それだった。
だから、そのままにした。




