第31話 反対尋問
冬坂は、傍聴席に座っていた。
三か月前、この法廷で証言台に立っていた。今日は、後ろから三列目の、通路側の席にいる。
法廷の造りは何も変わっていない。天井の高さも、木の色も、空調の音も。ただ、見える角度が違った。
証言台は、こちらに背中を向けている。
傍聴席は八割が埋まっていた。前のほうに記者らしい男が三人。冬坂の隣は空いていた。
開廷を待つあいだ、誰かが咳をした。この法廷は天井が高い。音が上へ抜けて、二列前まで届かなかった。
***
午前は、鑑定医の証人尋問だった。
県立医大の法医学教室の准教授で、五十代の女性だった。鵜沢が三日かけて口説いた人だと聞いている。
「左後頭部の硬膜下血腫について、受傷と同時に意識を失った所見ですか」
「いいえ。出血量、血腫の厚さ、脳組織への圧迫の状態から、受傷後に意識のある時間があったと考えられます」
「その時間を、分単位で特定できますか」
「できません。個人差があります」
「では、打撃の直後に意識を失った可能性は」
「本件の所見とは整合しません」
検察官が反対尋問に立った。
「一般論として、即座に意識を失う場合もあるのではありませんか」
「あります。頭蓋骨骨折を伴う場合や、脳幹に直接損傷が及ぶ場合です」
「本件でも、その可能性を完全に否定できますか」
「医学上、完全という言い方はしません。ただ、頭蓋骨骨折も脳幹の直接損傷も認められず、即時の意識喪失を示す所見はありません」
検察官は座った。
冬坂は、傍聴席で膝の上の手を見ていた。
この証言だけでは、何も決まらない。受傷後に意識のある時間があったという事実は、意識喪失がいつだったかを決めなければ意味を持たない。
鵜沢が次の証人を請求した。
***
「証人は、氏名と職業を」
「皆瀬亮。再生記録課管理官です」
紺の制服だった。証言台に立ってからも、姿勢は変わらなかった。
鵜沢が立ち上がった。コートは着ていない。今日は脱いでいた。
「証人。検察官提出の乙第七号証、一次解析判定書の表紙をご覧ください」
「拝見しております」
「上部に、解析基準時刻という項目があります。数値は二一:〇〇。これは何の時刻ですか」
法廷が静かだった。
冬坂は、傍聴席から皆瀬の背中を見ていた。
この男は嘘をつかない。訊かれたことには答える。それが三か月分の観察から得た、たった一つの結論だった。
外れません、と自分は言った。三日前に、断定した。
もし答えなければ、冬坂の見立ては最初から間違っていたことになる。
「意識喪失推定時刻です」
皆瀬は答えた。
傍聴席のどこかで、誰かが体を動かした。
「死亡推定時刻ではないのですね」
「異なります」
「異なる、というのは」
「一次記録の書式において、解析基準時刻の欄と死亡推定時刻の欄は、別に設けられております」
「いつから別ですか」
「十四年前からです」
「なぜ分けたのですか」
「両者が乖離する事案が報告されたためです」
「乖離とは」
「意識喪失から死亡までに時間がある場合、両者の時刻は一致しません」
鵜沢は、次の質問をすぐに出さなかった。
二秒か三秒、法廷を静かにしたままにした。
「では証人。再生映像は、どちらの時刻を基準に記録されますか」
「解析基準時刻です」
「もう一度伺います。再生映像に記録される三十秒は、死亡の直前ですか。意識喪失の直前ですか」
「意識喪失の直前です」
***
裁判長が、書面を一枚めくった。
検察官が立ち上がりかけて、また座った。
鵜沢は続けた。
「本件において、解析基準時刻は二十一時ちょうどです」
「そのとおりです」
「したがって、再生映像に記録された三十秒は、二十時五十九分三十秒から二十一時ちょうどまでですね」
「そのとおりです」
「先ほどの鑑定医の証言によれば、被害者は受傷と同時に意識を失ったのではありません。したがって、被害者が頭部を打たれたのは、二十一時より前ということになります」
「その推定の当否について、私は判断する立場にありません」
「判断は求めていません。時刻の定義だけを伺いました」
「承知いたしました」
鵜沢は、書面を置いた。
「証人。もう一つだけ」
「はい」
「この定義は、公開されていますか」
皆瀬は、少し間を置いた。
「一次記録の書式は、非公開です」
「では、弁護人がこの定義を知る方法は」
「証人尋問において、質問していただくことです」
冬坂は、傍聴席で目を閉じなかった。
この男は、いま、初めて自分から道を示した。
訊かれれば答える。だが、訊く方法があることは、誰も教えない。十四年間、誰も訊かなかった。
***
午後、芦原澪が証言台に立った。
黒っぽいコートは脱いでいた。灰色のシャツだった。
「二十三日の夜、須賀沼敬一氏の事務所の裏へ行かれましたか」
「行きました」
「何時ですか」
「バスを降りたのが二十時四十三分です。そこから五分ほど歩きました」
「そのとき、被害者は」
「倒れていました」
「生きていましたか」
「生きていました。話しました」
「何を話しましたか」
澪は、証言台の縁に手を置いていた。
「救急車を呼ぶと言いました。呼ぶなと言われました。帰れと言われました」
「あなたは」
「帰りました」
法廷が静かになった。
検察官が反対尋問に立った。長かった。
なぜ通報しなかったのか。なぜ三か月も黙っていたのか。被害者との関係は。金銭の授受はあったか。被害者が保管していた書類について、あなたは知っていたか。取り返そうと考えたことはあるか。
澪は、全部に答えた。
最後の一つにも答えた。
「考えました」
傍聴席がざわついた。
「ですが、あの人が倒れているのを見たとき、わたしは書類のことを考えませんでした」
「では何を」
「携帯を出しました」
澪は言った。
「呼ぶな、と言われて。わたしは、携帯をしまいました。それだけです」
証言台の縁に置かれた手は、最後まで動かなかった。冬坂の位置からは、その手だけが見えていた。
***
結審は、二回の期日を経て、翌月だった。
そのひと月のあいだに、冬坂は二度、鵜沢の事務所へ行った。用件はなかった。書面はもう出揃っていて、待つだけだった。
一度目に行ったとき、鵜沢は別件の準備をしていた。二度目に行ったとき、机の上から須賀沼の記録が消えていた。段ボールに入れて、足元に置いてあった。彼女はそれを、まだ捨てていなかった。
冬坂は自分の部屋で、三年前の記録を段ボールに戻した。ガムテープは貼らなかった。蓋を閉じただけにした。
押入れに入れるとき、上に乗せる寝具の袋は、二つとも別の場所へ移した。
判決は、無罪。
理由の要旨で、裁判長はこう述べた。
再生映像に記録された三十秒は、被害者の意識喪失の直前であり、受傷の直後ではない。したがって、映像に加害者が記録されていないことをもって、被告人が視界外にいたと推認することはできない。被害者は二十時四十八分ごろにはすでに負傷しており、その後も意識があったとする証言がある。証言が遅れた事情を考慮しても、その内容を排斥することはできない。他方、被告人が二十一時まで飲食店にいたことは複数の証人により裏づけられている。被告人が退店後に犯行に及んだとする検察官の主張には、合理的な疑いが残る。
郷田実は、被告人席で動かなかった。
立ち上がったのは、裁判官が退廷した後だった。
冬坂は傍聴席から、その背中を見ていた。両手は身体の脇にあった。膝の上ではなかった。
***
冬坂は、傍聴席から出るのが最後になった。
人が引いた法廷は、ただの部屋だった。証言台も、被告人席も、何も置かれていない木の台に戻る。
傍聴席の座面が、いくつか下りきっていなかった。ひとりでに戻る造りではない。
三か月前、自分はここで異議を述べた。周縁部の人物同定について。輪郭が四画素分ほど滲んでいると。
あの異議は退けられた。退けたのは、今日そこに立っていた男だった。
冬坂は、証言台の前を通った。
立ち止まらなかった。
***
廊下で、鵜沢が待っていた。
「終わったわ」
「はい」
「あと、これ」
鵜沢は書面を一枚差し出した。検察庁の記者発表の写しだった。
再生記録課管理官による現場保全権限の不正行使と、現場からの物品持ち出しについて捜査を開始した、と二行ある。
殺人の文字はなかった。
「これからよ」鵜沢が言った。「時間かかるわね」
「かかります」
「あなた、やる?」
冬坂は、書面を返した。
「私はもう鑑定人ではありません」
「知ってるわよ」
鵜沢は書面を鞄に入れた。
「訊いたのは、そういうことじゃないの」




