変わらないもの
再生記録課の通知は、判決の十九日後に出た。
A4で二枚。表題は「一次記録の運用に関する当面の取扱いについて」。
冬坂は、それを事務所の机で読んだ。
解析基準時刻の定義について、疑義が生じている。当面のあいだ、鑑定書の作成にあたっては、解析基準時刻と死亡推定時刻の双方を併記すること。なお、過去の事案の取扱いについては、今後の検討課題とする。
二枚目は、記入例だった。
記入例の日付は架空のもので、時刻は二つとも同じ値が入っていた。乖離のない例だった。
「これだけ?」
鵜沢が言った。
「これだけです」
「二十九件は」
「今後の検討課題です」
鵜沢は通知を裏返した。裏は白かった。
「再審の申立ては」
「本人か、遺族が出す必要があります」
「本人たちは、この通知を読まないわね」
「読みません」
鵜沢は通知を机に置いた。置き方が、いつもより静かだった。
冬坂は、二枚目の記入例をもう一度見た。
書式そのものは変わっていない。項目は三十七のまま。欄の幅も同じだろう。変わったのは、そこへ何を書くかについての、当面の取扱いだけだ。
三年前に自分が数字を書いた欄は、いまも同じ場所にある。
***
郷田実は、三日前に事務所へ来たという。
冬坂は会っていない。鵜沢が対応した。
「お礼を言いに来たわけじゃなかったわ」
「では」
「相談。仕事が続けられないって」
鵜沢はコートを着たままだった。
「公判で全部出たでしょ。須賀沼から八年、督促されないまま三百万押さえられてたって。無罪の理由の一部として、動機がないことを説明するのに、うちが出したの」
「私が組み立てました」
「そうね」
鵜沢は、それを責める言い方をしなかった。
「取引先が離れたって。無罪になった人でも組むのは、まあ、面倒なのよ。裁判にかけられた、って事実のほうが残るから」
「三軒とも」
「そう、三軒とも」
「そうですか」
「あと、あの人、離婚するって」
冬坂は、通知の縁を指で押した。押していることに気づいて、手を引いた。
拘置所で、あの人は家のことを訊かなかった。訊けば聞けたはずのことを、訊かなかった。
鉛筆で手紙を書いた人だった。返事が来た二軒に、今度は何を書くのだろうと思い、それも訊けないことだと気づいた。
「先生」
「なに」
「郷田さんは、勝ちました」
「勝ったわ」
「勝ちましたね」
鵜沢は答えなかった。
彼女はデスクの端の菓子パンの袋を見て、手を伸ばさなかった。
冬坂は待った。
鵜沢は、口を開かなかった。
三か月、この人はどんな場面でも同じ言葉で締めてきた。冬坂がどれだけ精緻な話をしても、最後に一度だけそう訊いた。それが彼女の署名だった。
今日は、訊かなかった。
冬坂は、代わりに言おうとして、やめた。
言えば、それは彼女の言葉ではなくなる。
***
都築の資格停止処分は、判決の前に出ていた。
六か月。記録の目的外閲覧。冬坂は官報でそれを知った。
連絡はしていない。都築からもない。
番号は消していない。かける口実も、いくつか思いつく。処分のこと。復帰のこと。判決が出たこと。どれも口実として成立する。
成立するから、かけていない。用のない電話を、この男は喜ばないだろう。喜ばれることを期待してかけるのなら、それは自分のための電話だ。
六か月後、彼が復帰するのかどうかは分からなかった。停止を経た技師の復帰率を、冬坂は知っている。三割に満たない。
事務所の窓から、隣のビルの室外機が見えた。回っていた。
あの夜、ファミリーレストランで、テーブルの上に水滴の輪が二つ残っていた。都築の前には何も置かれていなかった。
冬坂はそれを、まだ覚えている。
一度見たものを、忘れない。
***
澪は、不起訴になった。
嫌疑不十分。保護責任者遺棄の疑いは、須賀沼が明示的に通報を拒んだことと、澪が被害者の保護を引き受ける立場になかったことから、立件が見送られた。
通知が届いた日、彼女は事務所に来た。
鵜沢は外出していた。冬坂だけがいた。
「これ、返します」
澪は封筒を差し出した。中身は入っていなかった。
「柏木さんのものです」
「お持ちください」
「持っていても、しかたないので」
澪は封筒を机の端に置いた。前と同じ場所だった。
椅子は横にあった。彼女は座らなかった。
「あの書類、まだ見つかってないんですよね」
「見つかっていません」
「じゃあ、わたし、まだあの人の持ち物ですか」
冬坂は、一拍置いた。
「いいえ」
「なんで言い切れるんですか」
「あなたが、法廷で全部話したからです」
澪は、少し目を伏せた。
「隠す価値がなくなったから、ですか」
「そうです」
「それ、慰めじゃないですね」
「慰めではありません」
澪は、初めて笑った。声は出さなかった。
「そういうところ、変わらないんですね」
彼女は扉のほうへ歩いた。
扉に手をかけて、振り返った。
「父の再審、やりません」
冬坂は動かなかった。
「調べました。乖離が十分を超えた事案じゃないと、名簿に入らないそうです。父のは二十四分なので、入ります。でも、入っても、やり直すかどうかは別の話で」
「別です」
「勝てるかどうかも分からないし、勝っても父は戻らないし」
澪は、扉の縁を指で押さえた。
「わたし、あの人に人生を決められるのは、もう終わりにしたいんです。父のことも含めて」
「分かりました」
「分かってないと思います」
澪は言った。
「でも、それでいいです」
扉が開いた。
彼女は出ていった。閉める前に、扉を一度押さえた。乱暴に閉まらないように。
冬坂は、その動作を見ていた。
階段を降りる音が、下まで続いて、聞こえなくなった。
この人が階段を使うことを、自分はもう知っている。知ったのは、二度目に来たときだった。
***
名簿は、その週に非公式な形で流れてきた。
鵜沢がどこから取ったのかは訊かなかった。二十九件の一覧だった。事件番号と、判決の年月と、乖離の分数だけが並んでいる。氏名はない。
冬坂は、上から順に読んだ。
乖離、十二分。十四分。十一分。二十四分。三十七分。
四枚目の途中で、手が止まった。
三年前の日付があった。乖離、二十四分。
冬坂は、その行を長く見ていた。
行の前後には、知らない事件が並んでいた。番号だけがあって、どんな事件だったのかは分からない。二十九人の誰も、この紙の上では区別がつかない。
この一覧を、二十九人のうち何人が見るのだろうと思った。思ってから、それは自分が答えを持てない問いだと分かった。
***
名簿を閉じてから、冬坂はもう一つのことを思い出した。
四か月前の、あの日の法廷。
別件の再生だった。誰の事件だったのかも、いまは思い出せる。被害者の名前も、被告人の名前も。争点はほとんどなかった。映像に加害者が明瞭に映っていた。
傍聴席の二列目に、年配の女がいた。膝の上でハンカチを握っていた。畳み目が四つあった。
冬坂は名簿をもう一度開いた。
あの事件は、載っていない。
載っていないのは、乖離が十分を超えなかったからだ。あるいは、そもそも乖離がなかったからだ。名簿には分数しか書かれていない。載っていない事案が、乖離ゼロだったのか、九分だったのかは、この紙からは分からない。
九分でも、意味は変わりうる。
冬坂は、あの映像を思い出した。
傾いだアスファルト。街灯の光。歩き出す男の背中。画面の端に立っていた、輪郭の溶けた誰か。
そして、視界の隅で回り続けていた自転車の車輪。
あのとき、自分はそれを見て、時間が経っていないと思った。
思っただけだった。
測らなかった。何回転していたのかも、どれだけの速さで回っていたのかも、見ていない。見ていたのに、数えなかった。
あの事件の再生は、もう終わっている。
脳に残っていたものは、何も残っていない。
冬坂は、名簿を閉じた。
あれが正しかったのかどうか、自分には二度と分からない。
***
鵜沢が戻ってきたのは、日が落ちてからだった。
彼女は封筒を一つ持っていた。新しいものだった。
「先生」
「はい」
「次の依頼」
鵜沢は封筒を机に置いた。冬坂の正面ではなく、端に。
「聞くだけ聞いてくれる?」
「伺います」
「四十代の男。マンションの階段から落ちて死んでる。事故で処理されかけたけど、遺族が納得しなくて再生した」
「映像は」
「見た。階段と、天井と、自分の手。人は映ってない」
「遺族の方は」
「奥さんと、娘さんが一人」
冬坂は封筒を見た。手は伸ばさなかった。
「先生。私は鑑定人ではありません」
「知ってるわよ」
「証言はできません」
「知ってる」
鵜沢はコートを脱いだ。椅子の背にかけた。袖が床に届いていた。
「読むだけならできるでしょ」
冬坂は答えなかった。
机の引き出しには、一枚の書式が入っている。三週間前、庁舎の窓口で受け取ったものだった。認定申請書。返上者が再申請する場合の様式。
まだ、何も書いていない。
窓口で受け取るとき、職員は用件を訊かなかった。書式の番号を言えば出てくる。それだけの紙だった。
冬坂は引き出しを開けなかった。
封筒に手を伸ばした。
角を、揃えた。




