第6話 不可能
夜の事務所で、冬坂は紙を六枚並べた。
机の上のものを端へ寄せてから並べた。判例集を二冊、書類の束を三つ、菓子パンの袋を一つ。空いた面積は、A4を六枚並べるのにちょうど足りた。
判例集の一冊は、背が割れて糸が見えていた。もう一冊は新しく、帯がついたままだった。書類の束のうち一つは本件のもので、残る二つは違う事件だった。表紙に別の名前が印字されている。冬坂はそれを裏返して積んだ。
鵜沢が向かいに座り、コンビニの袋から惣菜パンを出した。今度はコートを脱いでいた。椅子の背にかけただけで、まだ袖が床に届いている。
「整理するの?」
「整理します。新しいことは何もありません。すでに分かっていることだけです」
「それが一番嫌いなやつね」
「私もです」
冬坂は一枚目を指した。
「一。映像は、死者の最後の三十秒です。視界のみ。音はありません」
二枚目。
「二。再生は一度きり。死後四十八時間以内、保存措置があれば十日以内」
三枚目。
「三。現場は袋小路です。出入りできるのは入口の一箇所のみ。シャッターは施錠されており、内側から開いた形跡はありません」
四枚目。
「四。須賀沼は入口の方向を向いて倒れていました。その位置から入口までは十九メートル。見通せます。頭の側は突き当たりで、室外機の架台が塞いでいます」
五枚目。
「五。映像の三十秒間、そこには誰も映っていません」
六枚目。
「六。トリアージは当初、事件性なしと判定していました」
鵜沢はパンを咥えたまま、六枚を順に見た。左から右へ、それからもう一度、右から左へ。
「で?」
「加害者は、殴った後、路地から出られません」
***
「走ればいいじゃない」
「六秒から七秒かかります。映像は三十秒あります」
「じゃあ、殴ってすぐ出たら?」
「同じです。映像は殴打の直後から始まります。頭部を強打されて、それでも三十秒間、須賀沼は生きていた。その三十秒に、加害者の後ろ姿が入らない位置はありません」
鵜沢はパンを置いた。包装が開いたままだったが、畳まなかった。
「隠れた?」
「隠れる場所がありません。仮にあったとしても、出るときには入口を通ります。映像が終わった後に出たのなら、須賀沼が死ぬまで路地の中にいたことになりますが」
「それでもいいでしょ。死んでから出れば」
「立てる場所がありません」
冬坂は四枚目を指した。
「壁から須賀沼の頭までが一・二メートル。そのうち一メートルを架台が占めています。残りは二十センチです。左右は壁とシャッターで、あとは正面だけになります」
「正面なら映る」
「映ります。それに」冬坂は言った。「須賀沼は、一度も後ろを見ていません」
「後ろ?」
「あの三十秒、彼は壁の下を二度確かめています。意識があって、視線を動かせる状態でした。頭のすぐ先に人が立っていたのなら、一度は振り返るはずです」
鵜沢はペンの尻でデスクを二回叩いた。
「じゃあ死角はないのね」
「ありません」
「検察の主張、そこだけでしょ。崩れるじゃない」
「崩れません」
冬坂は言った。
「死角がないと言えば、検察は死角の場所を言い直すだけです。映っていない以上、どこにいたことにもできます。こちらが図面で潰しても、向こうは図面で答える必要がありません」
鵜沢はペンを置いた。今度は音がした。
「腹立つわね」
「腹は立ちます」
冬坂は四枚目の紙を、五枚目の隣に寄せた。
「彼は入口を向いていました。路地の中に人がいれば、視界に入ります。誰も映っていないということは、路地の中には誰もいなかったということです」
「……三十秒のあいだ、犯人はいなかった」
「はい」
「でも、その直前に殴ってる」
「はい」
「出てもいないし、いてもいない」
「そうなります」
鵜沢は椅子ごと後ろへ下がり、机の脚に膝を当てた。小さく舌打ちをして、また前へ戻った。
「自殺は」
「後頭部の左寄りです。自分では届きません」
「事故。上から何か落ちてきた」
「落下物なら現場に残ります。凶器は見つかっていません」
「じゃあ誰かが持ち去った」
「持ち去るには、路地に入って、出る必要があります」
鵜沢はしばらく何も言わなかった。デスクライトの円の外で、彼女の指がゆっくり動いていた。数えているように見えた。
彼女はこうして詰まったとき、必ず反論のほうから試す。冬坂はそれに気づきはじめていた。三日で気づく程度には、この人は同じやり方を繰り返す。
「じゃあ、あれは。あの映像、加工されてるってことは」
「ありません」
「断言するのね」
「再生は脳の構造を直接読み出します。出力はその場で封をされ、立会人が署名します。差し替えるなら、機材と、立会人と、封印の全部に手を入れる必要があります」
「四人よ。四人しかいないじゃない」
冬坂は一拍置いた。それは考えなかったわけではなかった。
「四人が全員共謀していたなら、可能です。ですがその場合、彼らは加害者が映っていない映像を作ったことになります」
「……そうか」
「加害者を消したいなら、別の誰かを映せばいい。何も映っていない映像は、誰の役にも立ちません」
「じゃあ、なんのために」
「分かりません」
***
雨は上がっていた。窓の下を、遅い車が一台通った。
向かいのビルは、一つおきに明かりが消えていた。残っている窓のうち、二つは同じ階だった。
そのうちの一つで、人影が立ち上がり、部屋の奥へ消えた。明かりは点いたままだった。
冬坂は六枚の紙を見下ろした。どの二枚を組み合わせても矛盾しない。六枚全部を並べたときだけ、答えが消える。
順番を変えてみた。三と四と五を先にして、一と二を後ろへ回す。現場の条件から始めて、制度を後に置く並びだ。
変えても、消える場所は同じだった。
もう一度、一を先頭に戻した。戻してから、一枚目だけを手前に引いた。
映像は、死者の最後の三十秒である。
この一行だけが、他の五つと性質が違う。三から六は、調書や図面や書式で確かめられる。一は、確かめていない。習ったことを、そのまま書いている。
冬坂はその紙を、しばらく見ていた。それから、元の位置へ戻した。
こういうときのやり方は一つしかない。三年前にも同じ場面があった。あのとき自分がどうしたかは、覚えている。
「先生」
「なに」
「私は、どこかを読み違えています」
鵜沢が顔を上げた。
「読み違えてるって、何を」
「分かりません。ですが、六つのうちのどれかが、私の思っている意味ではありません」
「六つとも、制度で決まってることでしょ。規則よ。読み違えようがないじゃない」
「規則を、私が正しく理解しているとは限りません」
冬坂は紙をまとめなかった。並べたまま、そこに置いた。
「三年前、私は映像を読み違えました。あのときも、映像そのものは正しかった。誤っていたのは、私が映像に与えた意味です」
鵜沢は何も言わなかった。パンの袋を畳んで、机の端に寄せただけだった。
畳み方が丁寧だった。いつもは丸めて捨てる人が、今日は畳んだ。
「先生。この事件は、いま説明できません」
「知ってる」
「説明できないのは、犯人が巧妙だからではないと思います」
「じゃあ、なんなの」
冬坂は、六枚目の紙の縁を、指で押さえた。
「規則のとおりであれば、この殺人は起こり得ません」
事務所の時計が、秒針の音を立てていた。夜の建物は静かで、それだけがよく聞こえた。
文字盤は白く、数字は四つおきにしか入っていない。冬坂は秒針が六枚の紙の上を一周するのを、そのまま見ていた。数えはしなかった。
三十秒で、映像は終わる。この部屋では、その三十秒が三十回も四十回も過ぎていく。何も起きないまま。
起こり得ないことが起きている。
そして須賀沼敬一は、いま確かに死んでいる。




