第5話 判定
翌日は雨だった。
鵜沢の事務所の窓は東を向いていて、雨の日は一日じゅう薄暗い。彼女は蛍光灯をつけず、デスクライトだけで書類を読んでいた。冬坂は向かいで、前日の写しを広げていた。
傘は入口の隅に二本立てかけてある。冬坂のものと、鵜沢のもの。鵜沢の傘は骨が一本折れていて、畳んだときに膨らんでいた。
床に、傘から落ちた水が二つの輪を作っている。片方はもう乾きかけていた。
「柏木のことは、いったん置きます」
「置くの?」
「所属も資格の状況も開示されません。名前だけでは進めません」
鵜沢はライトの角度を変えた。光の円が机の上を滑り、書類の白が動いた。
「じゃあ何をやるの」
「手前に戻ります」冬坂は写しの一枚目を指した。「この再生は、そもそも行われないはずでした」
***
再生には順序がある。
死体が見つかると、まず一次解析が走る。名称は「トリアージ」。死因、外傷、現場の状況、周辺の記録を突き合わせて、事件性の有無を判定する。事件性ありと出れば、遺族の同意を確認したうえで再生の手続に入る。事件性なしと出れば、そこで終わる。
冬坂は三年間、その順序の内側にいた。判定が出てから呼ばれる立場だったので、判定そのものを見たことはなかった。
呼ばれるのは、たいてい前日の夕方だった。事件番号と、執行の日時と、機材の型番。それだけが書かれた通知が回ってくる。どんな死に方をした人かは、当日、機材の前で初めて知る。
順序の内側にいるというのは、そういうことだった。自分の前と後ろに何があるかを、考える必要がない。前の工程が終わったから呼ばれ、自分が終われば次へ渡す。三年間、一度も遡らなかった。
「須賀沼の判定は」
「事件性なし。前に言ったでしょ」
「頭を殴られているのにですか」
「そこよね」鵜沢はペンの尻でデスクを二回叩いた。「私も最初、誤判定だと思ったの。でも判定書はちゃんと出てる」
冬坂は判定書の写しを引き寄せた。
一枚きりの、素っ気ない書式だった。事件番号。対象者の氏名。判定結果——「事件性なし」。そして、判定根拠の欄。
紙は薄かった。裏の印字が透けている。指で持つと端が波打った。庁舎の複写機が吐き出したものではなく、こちらで再度取った写しだった。
冬坂は上から順に読んだ。読む必要のない欄も読んだ。事件番号の桁数。対象者の氏名の下にある、空欄のままの「通称」の欄。判定日時。判定に要した時間の欄には、秒まで入っていた。
機械は、四十一秒で終わらせている。
根拠の欄は、非開示だった。灰色に塗られている。
塗られているのではなく、最初から灰色で印刷されている。開示の段階で伏せたのではなく、伏せた状態が定型なのだと分かった。
灰色は均一ではなく、細かい網点でできていた。目を近づけると点が見える。離すと、また面に戻る。
「これは、いつもこうですか」
「いつもこう。AIの内部判断は開示対象外。何度も争われてるけど、通ったことがない」
冬坂は表紙に戻った。判定書の上部に、小さな活字で数字が並んでいる。
解析基準時刻 二一:〇〇
冬坂はその行を読み、次へ進んだ。解析にはどこかに基準を置く。おかしなところはなかった。
***
「じゃあ、なんで再生されたの、っていう話よね」
「遺族の申立てです」
「そう。事件性なしの判定に対して、遺族が異議を出した。異議が認められて、再生が行われた」
「認められる例は、多くありません」
「私も一件しか知らない。それも十年前」
鵜沢は椅子を回し、書棚から薄い冊子を抜いた。表紙に付箋が三枚。抜くときに隣の一冊が倒れたが、直さなかった。
「調べたわよ。この制度、条文はあるの。トリアージの判定に対して、遺族は異議を申し立てられる。申立てがあったら、再生記録課が再判定する」
「再判定の基準は」
「書いてない」
冬坂は顔を上げた。
「書いてないんです」鵜沢はもう一度言った。「相当と認めるとき、って書いてあるだけ。誰が、何をもって相当と認めるかは、書いてない」
雨が窓を斜めに打った。事務所のどこかで、電話が鳴りはじめ、三回で切れた。鵜沢は目も向けなかった。かけ直してくる相手かどうかを、鳴り方で分けているらしかった。
「先生。この事件は、例外です」
「例外ね」
「機械が終わらせようとしたものを、人間が引き戻しています。手続の入口が、通常と違う」
「それって、うちに有利?」
冬坂は一拍置いた。
「分かりません。ですが、ここだけ人の判断が入っています」
***
申立ての記録は、開示されていた。
申立人の欄には、須賀沼の妹の名があった。住所は市外。申立ての理由は、定型文が一行。「死因に疑義があるため」。
冬坂はその一行を二度読んだ。
字が小さかった。欄の幅に対して余白が多い。もっと書ける場所があるのに、一行で止めてある。
罫線の下端に、書きかけて消した跡があった。二文字分。消し方が丁寧で、何を書こうとしたかは分からない。
「短いですね」
「代理人がついてない。本人が窓口で書いたんでしょ」
「疑義の中身が書かれていません」
「書かなくても受理されるのよ。書式上はそれでいいの」
冬坂は次の紙へ移った。再判定の結果通知。事件性あり。日付は、申立ての翌日だった。
「一日で覆っています」
鵜沢の手が止まった。
「一日?」
「申立てが二十六日。再判定が二十七日。再生の執行が二十八日」
「死後、何日目?」
「五日目です」
鵜沢はデスクライトを冬坂のほうへ向けた。光が顔に当たり、冬坂は少し顎を引いた。
「待って。再生って、四十八時間以内じゃなかった?」
「四十八時間以内です」
「じゃあ間に合ってないじゃない」
「間に合っています」冬坂は言った。「保存措置が取られていれば、期限は延びます。低温保存で最大十日。ただし——」
冬坂はそこで、自分の言葉を確かめた。
「ただし、保存措置は、事件性ありの判定が出てから取られるものです」
雨の音が、少しだけ大きくなった。
「事件性なしって判定されたのに、保存されてたってこと?」
「されていなければ、二十八日の再生は不可能です」
「誰が指示したの、それ」
「分かりません」
冬坂は書類の束を最初から繰り直した。保存措置の指示者の欄を探す。一枚ずつめくり、裏も見た。書式は表と裏で別の項目が並んでいる。
項目の並びは、三年前と同じだった。どこに何があるかを、手が覚えていた。
一度目は、見つからなかった。束を戻し、もう一度、今度は裏から繰った。逆から見ると、同じ紙が別のものに見える。それも技師の頃に覚えた手つきだった。
鵜沢は何も言わずに待っていた。ライトの円の外で、彼女の指が動いていない。
あった。四枚目の裏、細い罫線の中に「指示権者」という項目がある。
その欄は、灰色に塗られていた。
「非開示」
「非開示です」
鵜沢は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。二秒ではなかった。もっと長く見ていた。
「機械が終わらせようとした事件を、誰かが終わらせなかった」
「はい」
「その誰かが、名前を出してない」
冬坂は答えなかった。
訊きたいことが一つあった。この欄を伏せる規定が、いつからあるのか。だが訊いても、答えられる人はこの部屋にいない。
窓の外で、雨が屋根を打っていた。デスクライトの光が書類の灰色の帯を照らし、そこだけが白く飛んで見えた。
冬坂は角度を変えて、もう一度見た。角度を変えても、白いままだった。
紙を持ち上げ、光にかざした。裏から透かしても、網点の面が一様に暗いだけだった。
冬坂は紙を机に戻し、角を揃えた。




