第4話 手続き
再生記録課の庁舎は、地方裁判所の裏手にあった。
三階建ての、飾りのない建物だった。玄関に案内板はなく、番号を押して名乗ると自動扉が開く。冬坂は三年ぶりにその音を聞いた。低い、二段階の解錠音。何も変わっていない。
玄関マットの端が同じ場所で捲れていた。三年前も、誰かがそれを踏んで躓いていた。直されていない。
「来たことある?」
「勤めていました」
鵜沢は少しだけ足を止め、それから何も言わずに歩き出した。
一階の廊下は左右に分かれていて、右は職員通用口へ続く。冬坂は左へ折れた。案内を見なかった。鵜沢が半歩遅れてついてきた。
右へ折れれば、通用口の脇に更衣室がある。ロッカーは番号順で、自分のものは下から二段目だった。扉の内側に磁石が三つ貼ってあって、外し忘れたまま返上した。誰かが処分しただろう。
冬坂は左へ歩いた。三年前、こちら側の廊下を歩いた回数は数えるほどしかない。開示請求は市民の側の手続きで、職員はここを通らない。
同じ建物の中で、通る廊下が分かれている。分かれていることを、勤めていたころは意識したことがなかった。
***
開示請求の窓口は二階だった。番号札を取り、十分待った。
待合の長椅子には、他に二人いた。片方は書類を膝に置いたまま眠っていて、もう片方は同じ書式を三度書き直していた。窓口は二つあり、開いているのは一つだけだった。
書き直している男は、記入台の鎖につながれたボールペンを使っていた。鎖の長さが足りないらしく、書くたびに紙のほうを引き寄せていた。
壁の掲示は、どれも同じ書体で印刷されている。角の丸くなったものと、そうでないものが混ざっていた。貼り替えの時期が揃っていない。
呼ばれて席へ行くと、応対に出たのは皆瀬だった。
「鵜沢律子先生と、冬坂さんですね」
名前を確認しなかった。番号札の数字も見なかった。
皆瀬は書類の束を、両手で、冬坂の正面に置いた。角がまっすぐ揃っていた。
「本件の再生手続に関する記録のうち、開示の対象となるものです。ご確認ください」
冬坂は表紙をめくった。執行日時、場所、使用機材の型番、そして立会人の欄。四名分の氏名と職名が並んでいる。
その下は、白かった。
「所属の記載がありませんが」
「立会人の所属および資格の状況につきましては、個人に関する情報として、開示の対象外となっております」
「氏名だけでは、誰なのか分かりません」
「氏名は開示しております」
皆瀬は否定していない。冬坂の言ったことをそのまま受け止め、その上で範囲だけを示していた。声は低く、急いでいない。
鵜沢が身を乗り出した。カウンターの縁に肘をつき、そのまま引かなかった。
「立会人が要件を満たしてなかったら、手続そのものが違法でしょ。それを確認する手段がないっていうのは」
「要件の適合性については、執行時に当課が確認しております」
「その確認の記録は」
「内部の確認記録につきましては、開示の対象外です」
「じゃあ、あなたたちが確認したっていう、あなたたちの言葉を信じるしかないわけね」
「制度としては、そうなっております」
皆瀬は言い直さなかった。言い訳もしなかった。彼にとってそれは、恥ずべきことでも誇るべきことでもないらしかった。
鵜沢が肘を引いた。引くとき、カウンターに残った跡を袖で拭った。
冬坂は書類を揃え、角を一度だけ叩いた。
「写しをいただけますか」
「どうぞ」
皆瀬は隣の複写機のほうへ手を伸ばさず、席を立って自分で取りに行った。戻ってくるまで四十秒ほどかかった。そのあいだ、鵜沢は何も言わなかった。
冬坂はカウンターの内側を見た。机が四つ、島を作って並んでいる。手前の二つは書類が積まれ、奥の二つは何もない。皆瀬の席がどれかは分からなかった。三年前、この配置は違っていた。
複写機の音が二度した。一度目より二度目のほうが短かった。枚数の違いだろう。
窓口の脇に、返却された番号札を入れる箱がある。ふちが擦れて、印字が薄くなっていた。冬坂が使っていた頃からある箱だった。
カウンターは、腰より少し高い。立っている側からは、内側の机の上が見える。座っている側からは、待合の長椅子が見える。
三年前、自分はこの高さの向こう側にいた。向こう側から待合を見たことは、たぶん一度もない。見る用事がなかった。
いま、こちらから内側が見えている。見えているものに、目新しいものは何もなかった。何もないことのほうが、少し落ち着かなかった。
皆瀬が戻ってきた。写しは、束のまま両手で置かれた。角は、また揃っていた。
***
廊下へ出ると、蛍光灯の一本が切れかけて明滅していた。三年前から同じ場所だった。
「あれ。冬坂さん?」
振り返ると、白衣の裾を持った男が立っていた。三十そこそこ。手にタブレットと、ペンと、ケーブルの束を抱えている。抱えたまま、片手でケーブルをいじっていた。
「都築幹」
「うわ、覚えててくれたんですね。びっくりした。いや、びっくりしましたよ、ほんとに」
都築は笑い、それから急に真顔になった。
「えっと、今日はどういう」
「開示請求です。須賀沼の件で」
「あー」都築の手が、ケーブルの上で一度止まりかけて、また動いた。「弁護側、なんですね」
「そうです」
「そっか。そうですよね」
鵜沢が横から見ていた。都築は彼女に会釈をして、それから冬坂に向き直った。
「あの、僕は何も言えないんですけど」
「訊いていません」
「そうですよね。訊かれてないですよね。うん」
都築は黙らなかった。
「でも、あれですよ。立会人の欄って、四人で埋まってました?」
冬坂は都築を見た。
「四人でした」
「ですよね。普通は三人なんですよ。課の担当と、医師と、検察の立会。四人目が入るのは、補助立会がついたときだけで」
「補助立会」
「機材の状態が悪いときとか、対象の損傷が大きいときとか。まあ、たまにあります。あるんですけど」
都築はそこで、ようやく口を止めた。ケーブルを持ち替える。持ち替えたあとで、束の長さが揃っていないのに気づいたらしく、端を引いて直しはじめた。
「……補助立会って、普通は課の中から出すんですよ」
「中から出さなかったということですか」
「いや、そこまでは。すみません、僕、何も言ってないので」
「都築」
「はい」
「ありがとう」
都築は困った顔をして、また笑い、ケーブルを落としそうになりながら廊下の奥へ歩いていった。手は最後まで動いていた。
廊下の途中に、扉のない給湯室がある。中で誰かが電気ポットの蓋を開ける音がした。都築はそこを通り過ぎ、突き当たりを右へ折れた。三年前、あの先は機材室だった。
冬坂は、その角をしばらく見ていた。
機材室の扉は重い。押すときに肩を使う。何年か使っていると、押す前に半歩下がる癖がつく。都築もそうしているだろうかと思って、思ってから、確かめる方法がないことに気づいた。
***
庁舎を出た。日が傾いて、建物の影が道路の半分を覆っていた。
「あの子、喋りすぎじゃない?」
「昔からです」
「危ないわよ」
「危ないです」
「止めないの」
「止めれば、次から言いません」
鵜沢は横目で冬坂を見た。何か言いかけて、やめた。
冬坂は歩きながら写しを開いた。四人目の欄。手書きではなく、印字されている。職名は「補助立会」。氏名は。
冬坂の足が止まった。
鵜沢が二歩先で振り返る。
「なに」
冬坂は答えなかった。もう一度、同じ行を読んだ。読み違えていないことを確かめるためだった。
柏木郁夫。
知っている名前だった。三年前まで、同じ課にいた技師だ。冬坂より七つ上で、手が速く、口数が少なかった。
昼の休憩を取らない人だった。機材の前に座ったまま、菓子パンを片手で食べていた。話しかけると答えたが、自分からは話さなかった。
一度だけ、機材の調整を教わったことがある。手順の説明はなく、やって見せるだけだった。冬坂が同じようにやると、うなずいて席を立った。それで終わりだった。
その男は、この立会に入れるはずがなかった。
「先生」
「だから、なに」
「この人は、いま技師ではありません」
鵜沢が戻ってきた。
「辞めたの?」
「辞めていれば、そう書きます」冬坂は紙の端を指で押さえた。風が出ていた。「辞めていない人間が、技師でなくなる場合があります」
影が道路を渡りきり、庁舎の窓に西日が入った。二階の、開示請求の窓口の窓だった。
中に人影はなかった。
冬坂は、窓の高さを目で測った。二階の床の高さから、腰より少し上。あのカウンターの内側は、外からは見えない。
三年間、自分もそこにいた。外からは見えない場所にいて、見えないことを、一度も不便だと思わなかった。




