第3話 現場
路地は、思っていたより明るかった。
袋小路の入口に立つと、突き当たりまでが一望できる。左側は三階建ての雑居ビルの側面で、下半分に錆びたシャッターが二枚。右側はコンクリートの壁で、隣の敷地との境になっている。地面は古い磁器質のタイルで、ところどころ割れて欠けていた。
昼の光が真上から落ちている。夜とは何もかも違う。
通りに面した側には、飲食店が二軒あった。片方は昼の営業を始めていて、換気扇から油の匂いが出ている。もう片方は看板が外されていた。人が死んだ路地の入口で、片方は普通に商売をしている。
看板を外した跡が、壁に長方形で残っていた。日に焼けていない部分だけが色を保っている。外されたのはごく最近らしかった。
「掃除はされてるのね」
鵜沢が言った。コートは着たままだ。手には缶コーヒーがある。
「数日前に、原状回復が入っています」
「早いわね」
「建物の所有者が須賀沼です。相続人が管理会社に依頼したと」
「早いわ、やっぱり」
鵜沢はそれ以上言わなかった。冬坂も言わなかった。相続人が誰かは、まだ調べていない。
冬坂は路地へ入った。三歩進んで止まり、振り返る。入口の幅は二メートルほど。その向こうに、通りの人の流れが見えた。
誰かがここを歩いていれば、通りからでも分かる。
路地の奥は、まだ薬品の匂いがしていた。洗剤とも消毒液ともつかない、少し甘い匂いだった。壁の下から一メートルほどの高さまで、コンクリートの色が濃い。水をかけた範囲が、そのまま残っている。
***
管理会社の男が鍵を持って現れ、シャッターを一枚だけ上げた。錆で途中に引っかかり、男は両手で持ち上げ直した。中は空だった。床にコンセントの跡と、四つの脚の窪みが残っている。
男の鍵束は大きかった。リングに十本以上あって、どれにも色の違うシールが巻いてある。使う一本を探すのに、彼は二度、束を回した。
「倉庫として使ってました。もう全部出しちゃって」
「何が入っていましたか」
「段ボールですね。書類の。大家さんのものだと思いますけど、中は見てないです」
「外側で、動かしたものはありますか」
男は少し考えた。
「壁際にあった箱を外しましたね。空だったんで」
「箱」
「金属の。ガスの点検箱かなんかだと思うんですけど、配管が繋がってなかったんで、この機にゴミとして出しました」
冬坂は実況見分の写真を出した。壁の下に、灰色の低い箱が写っている。高さは膝の下ほど。いまその場所には、タイルの色が変わった長方形だけが残っていた。
「いつ外しました」
「原状回復のときです。三日か四日前」
「重かったですか」
「いや、軽かったですよ。持ち上げたら中で音がしなかったんで、空だなって」
「持ち上げたのは、ご自身ですか」
「僕です。片手で持てました」
「どちらへ運ばれましたか」
「業者に出しました。金属なんで、まとめて」
「もう残っていませんか」
「ないですね。あの日のうちに持っていかれたんで」
鵜沢は、そのあいだに路地の奥まで歩いていた。突き当たりの手前で足を止め、缶を持ったまま、何かを覗き込んでいる。
「ねえ。この室外機、どかせるの?」
「無理ですね」男は振り返らずに言った。「あれは建物のです。二階と三階の分で、架台ごと据えつけてあるんで」
「昔から?」
「僕が担当してからはずっとです。十年は経ってると思いますよ」
鵜沢は答えず、架台の下を覗き込んだままだった。
冬坂は写真を戻し、手帳に一行だけ書いた。それ以上は書かなかった。
男は鍵をもてあそんでいた。早く終わらせたいのが分かる持ち方だった。冬坂は礼を言った。男はシャッターを下ろし、途中でまた引っかかり、下まで下ろしてから鍵をかけた。
鍵をかけたあと、彼はシャッターを一度だけ手で押した。動かないことを確かめる動作だった。毎日どこかで同じことをしているのだと分かった。
***
実況見分調書の図を、地面に重ねる。
須賀沼が倒れていたのは、突き当たりの壁から一・二メートル。頭は奥、足は入口側。体は右を下にして横向き。顔は入口の方向を向いていた。
突き当たりの壁の前には、空調の室外機が二台、鉄の架台に載っている。架台は壁から一メートルほどせり出し、両脇は壁との間に拳が入る程度しか空いていない。架台の下は、地面から十五センチほどだった。
須賀沼の頭があったのは、その脚のすぐ手前になる。
冬坂はその位置にしゃがみ、目線を地面から二十センチほどの高さに落とした。
「なにしてるの」
「視界を合わせています」
タイルは冷たかった。手をつくと、目地に細かい砂が溜まっているのが分かった。洗われたあとに、また溜まったものだ。
冬坂は、そのままの姿勢で待った。
映像の三十秒を、頭の中で流す。壁の面が視界の右半分を塞ぐ位置。左のシャッターが視界に入る角度。地面と壁の境目が見える高さ。
三つとも合うまでに、二度、位置を直した。一度目は壁に近すぎ、二度目は頭の向きが浅かった。三度目で、映像と同じ絵になった。
膝が痛みはじめていた。姿勢を保っていられる時間は、そう長くない。
右にコンクリートの壁。左にシャッター。地面は古いタイル。
映像と同じだった。
そして、正面には。
冬坂は動かなかった。
「先生」
「なに」
「そこに立っていただけますか。入口のところに」
鵜沢は缶を持ったまま、路地の入口へ戻った。十九メートル。冬坂の位置からは、彼女の膝から下と、地面と、その向こうの通りが見えた。
鮮明ではない。だが、人がいるかいないかは分かる。
通りを人が横切った。二人、続けて。どちらも判別はつかない。それでも、通ったことは分かる。
冬坂は、そのまま二十秒ほど見ていた。人が三度、通りを横切った。三度とも、通ったことは分かった。
映像の三十秒間、そこには誰もいなかった。
***
「もう一度、再生できないんですか」
鵜沢が戻ってきて訊いた。冬坂は立ち上がり、膝についたものを払わなかった。
「できません。再生は一度きりです」
「見落としがあっても?」
「あっても。読み出しは脳の構造そのものを消費します。二度目はありません」
「期限は」
「死後四十八時間。それを過ぎると何も出ません」
鵜沢は缶を振った。中身はもうないらしかった。
「じゃあ、須賀沼の三十秒は、あれで全部」
「全部です」
「やり直しは利かない、と」
「利きません」
冬坂は路地の奥へ視線を戻した。
現場は洗われ、箱は撤去され、映像はもう増えない。手元にあるのは、一度きり取り出された三十秒と、それを説明できない図面だけだ。
「先生。ひとつ、確認させてください」
「どうぞ」
「検察の主張では、加害者は須賀沼の背後から殴った。それは調書と合っています」
「合ってるわね。後頭部の左寄り」
「では、殴った後、加害者はどこへ行ったんでしょうか」
鵜沢が動きを止めた。
冬坂は路地の壁を指した。指先は触れない。
「この路地は袋小路です。突き当たりは壁で、越えられる高さではありません。シャッターは二枚とも施錠されていて、内側から開いた形跡はない。出るには、いま先生が立っていた入口しかありません」
「そうね」
「須賀沼は、入口の方向を向いて倒れていました」
鵜沢は入口を見た。それから、地面の、冬坂がしゃがんでいた場所を見た。
「……映るじゃない」
「映ります」冬坂はうなずいた。「歩いて出れば十数秒。走っても六秒か七秒。どちらでも、映像の三十秒の中に必ず入ります」
「でも映ってない」
「映っていません」
鵜沢は空の缶を握った。アルミが浅く鳴った。握った形のまま、彼女はそれを持ち続けた。
「隠れる場所は」
「ありません」
「後ろは」鵜沢は突き当たりを指した。「あの人の頭の側よ。あそこに立たれてたら、映らないでしょ」
「立てません。架台があります。裏は壁で、下は十五センチ。人が入れる隙間ではありません」
「シャッターの内側は」
「施錠されています。それに、隠れたところで、出るときには結局そこを通ります」
鵜沢は空の缶を、指の腹で二度叩いた。
「検察の言ってる死角、ないってこと?」
「ないことになります」
「じゃあ、犯人はどうやって出たの」
冬坂は答えなかった。
答えを持っていなかったからではない。答えの候補が、どれも成立しないと分かっていたからだ。
路地の奥で、風がタイルの欠片を転がした。細い、乾いた音がした。
隣の飲食店の換気扇が回り続けている。壁越しに、皿の触れる音がした。昼の営業が続いている。
通りのほうで、自転車が停まる音がした。誰かが店の前に停め、そのまま入っていったらしい。路地の入口には、誰も目を向けなかった。
冬坂はもう一度しゃがみ、須賀沼の視界に自分を置いた。
三度目は、一度で合った。
壁。シャッター。タイル。そして十九メートル先の、明るい入口。
その位置なら、加害者は映っていたはずだった。




