第2話 受任
鵜沢律子の事務所は、雑居ビルの四階にあった。
一階が不動産屋で、二階と三階に看板が四つずつ出ている。行政書士、整体、輸入雑貨、それから読めない社名。エレベーターは一基で、四階に着くまでに二度止まった。
二階で乗ってきた男は三階で降り、三階から乗った女は四階まで一緒だった。女は四階で降りると、廊下を反対側へ歩いていった。この階に事務所は二つあるらしかった。
廊下の突き当たりに消火器が置かれ、その横に段ボールが三箱積まれている。宛名の面が壁を向いていた。
扉を開けた瞬間に電話が鳴り、鵜沢は受話器を取り、三十秒ほど相手の話を聞いてから「無理」とだけ言って切った。冬坂は入口に立ったままでいた。
「座って。そこ、書類どけていいから」
椅子の上に紙の束が積まれていた。どの束にも付箋が生えていて、色が三種類ある。冬坂は束を持ち上げ、机の空いた場所へ移し、角を揃えてから座った。
「几帳面ね」
「習慣です」
鵜沢はコートを着たままだった。デスクの端には菓子パンの袋が置かれ、口が開いている。彼女はそれを一度見て、手は伸ばさなかった。
部屋は思ったより狭かった。壁の三面が書棚で、背表紙の高さが揃っていない。判例集の隣に、市の広報誌と、飲食店の割引券の束が挟まっている。事務員はいなかった。
「記録は全部そこ。裁判所に出てるものと、こっちで集めたもの。分けてない」
「分けたほうがいいと思いますが」
「分ける時間があったら次の準備するわ」
冬坂は束を引き寄せた。指で行は追わない。目だけで追っていく。
被害者、須賀沼敬一。五十七歳。個人で貸金業と不動産仲介を営む。先月二十三日の夜、自身の事務所の裏手で頭部を強打され死亡。凶器は未発見。現場は袋小路で、通り抜けはできない。
死体の発見は翌朝。死亡推定時刻、二十時四十分から二十一時十分。
冬坂はその行を読み、次へ進んだ。幅のある記載は珍しくない。三十分程度なら、むしろ狭いほうだ。
「再生の申立ては、遺族から」
「そうよ」
「一次解析は」
「事件性なし。でも申立てが通って、再生された」
冬坂は顔を上げた。
「AIの判定を覆したんですか」
「覆せる制度なの、いちおう。使われることは滅多にないけどね」
鵜沢はペンの尻でデスクを二回叩いた。
「で、再生した。三十秒。誰も映ってない」
***
「争点を教えてください」
「郷田実が二十一時二分に、現場の三十メートル手前を歩いてるのが防犯カメラに映ってる。歩いていった方向は、現場のほう」
「戻ってくる映像は」
「ない。そのカメラには、二度と映ってないわ」
「別の道から戻れますか」
「戻れる。遠回りになるけどね。だから決め手にはならない——はずだったんだけど」
冬坂は現場図を引き出した。手書きの線が重ねてある。鵜沢が自分で書いたものらしかった。定規を使っていない。距離の数字だけが、あとから几帳面に書き足されている。
「では、映像に加害者が映っていないことは」
「そこよ」鵜沢は身を乗り出した。「普通なら、映ってないなら郷田じゃない、で済む。でも検察は逆に使ってきてるの。映ってないのは、視界の外にいたから。つまり被害者の背後。つまり不意打ち。つまり計画的」
「……それは」
「筋は通るのよ。腹が立つけど」
冬坂は少し黙った。
「郷田さんのアリバイは」
「二十時三十分から二十一時ちょうどまで、隣の区の飲み屋。証人が三人」
「二分、足りませんね」
「足りないのよ。二分」
鵜沢は菓子パンの袋を引き寄せ、今度は口に入れた。噛みながら続ける。
「死亡推定時刻の幅の、後ろのほうを取られてる。二十一時ちょうどに店を出て、二分後に現場の手前を歩いて、そのあと殺した。何も矛盾しないの」
「店から現場まで、二分で歩けますか」
「歩けるのよ。測った」
冬坂はうなずかなかった。うなずけるだけの材料がなかった。
測った、と彼女は言った。誰かに調べさせたのではなく、自分の足で歩いたのだと分かる言い方だった。
その一言で、冬坂はこの部屋に座っている理由を一つ得た。得たことに、自分では気づかなかった。
***
「先生。私は資格を返上しています」
「知ってるって言ったでしょ」
「再生には関与できません。手続きにも入れません。できるのは、出てきた映像について意見を述べることだけです」
「それが要るの」
「その意見が通ったのを、私は見たことがありません」
言ってから、冬坂は言葉を選び直したくなった。だが取り消しはしなかった。
鵜沢はペンを置いた。
「なんで返上したの」
冬坂は答えなかった。窓の外で、隣のビルの室外機が回っていた。
「訊いちゃいけないこと?」
「……三年前に、私が読んだ映像で、有罪になった人がいます」
「それは仕事でしょ」
「後で、読み方が違っていたと分かりました」
鵜沢は何も言わなかった。冬坂は、彼女が次に何を訊くかを待った。同情でも、追及でもいい。どちらでも答えは用意していた。
鵜沢が訊いたのは、別のことだった。
「その人、いま生きてる?」
冬坂は、用意していたものをすべて使えなくなった。
「……いいえ」
「そう」
それだけだった。鵜沢は袋を丸め、屑籠に落とした。外さなかった。
屑籠は机の脇にあり、中身は紙よりも包装のほうが多かった。
冬坂は、喉の奥が乾いているのに気づいた。部屋は暖かい。それだけではないことは分かっていた。
この三年、誰かにあの話をしたのは初めてだった。話す機会がなかったのではない。話せば、相手は必ず何かを言う。慰めるか、責めるか、黙って気を遣うか。三つとも、こちらの負担になる。
この人は、どれもしなかった。
冬坂は、それをありがたいと思った。思ってしまったことが、少し落ち着かなかった。
***
映像はノートパソコンで再生された。証拠として開示された記録の複製で、何度でも見返せる。再生記録課が管理しているのは脳から読み出す機会のほうで、そちらは一度きりだ。取り出された三十秒は、こうして残る。
鵜沢は画面を冬坂のほうへ向け、自分は横から覗く位置に椅子を寄せた。
画面が暗い。すぐに、暗いのではなく夜なのだと分かる。
コンクリートの壁が近い。灰色の面が視界の右半分を塞いでいる。裏手の路地だ。左側に、シャッターの下りた出入口。地面はアスファルトではなく、古いタイルだった。
視界が傾いでいる。倒れている。
だが、動いている。
視界がゆっくりと横へ流れ、壁の下のほうを捉える。地面と壁の境目。そこに、何もない。
視界が止まる。
二秒。三秒。
それから、視界は少しだけ上がり、また同じ場所へ戻った。
「見た?」
「もう一度」
鵜沢が巻き戻した。バーの上を白い点が滑り、始点で止まる。読み込みに二秒ほどかかった。そのあいだ、画面は暗いままだった。
冬坂は画面から目を離さなかった。
同じだった。視界は同じ場所を二度見ている。壁の下の、何もない一角を。
人の姿はない。誰も入ってこない。誰も出ていかない。二十九秒目に視界が沈み、三十秒目に暗くなる。
冬坂はパソコンから顔を上げた。目の奥が乾いていた。三十秒のあいだ、瞬きをしていなかった。
「先生」
「なに」
「彼は、誰かを見ていません」
鵜沢が眉を寄せた。
「見てないって、そりゃ誰も映って——」
「そうではなく」冬坂は画面を指した。指は触れなかった。「探しているのでも、助けを呼んでいるのでもありません。同じ場所を二度見ています。これは、確かめている動作です」
鵜沢は画面を見た。それから冬坂を見た。
「何を」
「分かりません」
「で、それが分かったら勝てる?」
冬坂は一拍置いた。今度は、言葉を選んだのではなかった。
「分かりません。ですが、確かめる価値はあります」
言ってから、自分の声が少し速かったことに気づいた。
この三年、確かめる価値がある、と口に出す場面がなかった。返上した人間には、確かめる手段がない。手段がなければ、価値も出てこない。
鵜沢は椅子の背にもたれ、天井を二秒見上げてから、身を起こした。
「明日、現場に行くわよ。九時」
「受けるとは言っていません」
「言ったも同然でしょ」
冬坂は記録の束を揃えた。角を、一度だけ。
画面の中で、須賀沼はまだ壁の下を見ていた。




