第1話 立会い
映像に音はない。
傾いだアスファルトが視界の下半分を占めている。倒れているのだと分かるまでに、少しかかる。灰色の路面に街灯の光が細長く伸び、その上を黒い靴が横切っていく。視界が一度大きく揺れ、また戻る。
男が立っている。
顔は逆光で潰れ、輪郭だけが黒い。手に長いものを提げている。男はそれを一度持ち直し、背を向けて歩き出す。歩幅が広い。走ってはいない。
その男の向こう、画面のいちばん端に、もう一人いる。
街灯の届かない位置で、白っぽい何かが立っている。人の形に見える。動かない。輪郭は溶けていて、肩の高さも判然としない。
視界の隅では、倒れた自転車の車輪が回っている。速くもなく、遅くもなく、ただ回り続けている。音がないので、それがいつから回っているのか分からない。
男の背中が画面の外へ出る。
路面。街灯。車輪。
三十秒で、映像は終わる。
照明が戻り、法廷の白がまぶたに刺さった。冬坂慧は目を細め、手元の記録に視線を落とした。行は指で追わない。目だけで追う。
映写のための幕は、天井の溝へ巻き上げられていく。巻き上がる速さは決まっていて、途中で止まらない。廷吏が壁のスイッチを二段階で戻し、前列の照明から順に明るくなった。上映のたびに同じ順番で明るくなる。三年前もそうだった。
冬坂は、上映のあいだ、一度も瞬きをしていなかった。いつからかそうなった。三十秒のあいだ目を閉じないのは技師の職業病で、辞めても抜けない。抜けないことを、不便だと思ったことはない。
法廷は暖房が強かった。傍聴席は半分ほど埋まっている。前から二列目に、被告人の家族らしい年配の女が座っていて、映像のあいだ一度も顔を上げなかった。上映のために落とされた照明が戻っても、その姿勢は変わらなかった。
女の膝の上で、畳んだハンカチが握られていた。畳み目が四つある。何度も畳み直したのだと分かる形だった。
冬坂は、そちらを長く見なかった。見る必要がなかったからだ。
「弁護人から、鑑定人に確認があるとのことですが」
裁判長の声に、弁護人が立ち上がった。冬坂は証言台へ出た。
三歩だった。証言台の縁は木で、そこだけ色が薄くなっている。何人もが同じ場所に手を置いたのだと分かる高さだった。冬坂は手を置かなかった。
「周縁部に映っている人物について、検察は特定の氏名を挙げています。同定は可能でしょうか」
冬坂は一拍置いた。言葉を選び直す間だった。
「不鮮明です。同定できるとは言えません」
「根拠を」
「輪郭が四画素分ほど滲んでいます。街灯の角度から、逆光での欠損です。身長も、路面の傾斜を補正していない数値です」
裁判長がうなずいた。書記官の指がキーボードを打つ音が、二拍遅れて続いた。
法廷の隅で、再生記録課の席が動いた。
「よろしいでしょうか」
立ったのは、紺の制服を着た男だった。四十代の半ばに見える。声は低く、急いでいない。立ち上がるときに椅子が鳴らなかった。
「再生記録課管理官の皆瀬です。その点につきましては、本件の争点が被告人の行為態様に限られている以上、視界周縁部の人物同定は立証事項に含まれないものとして、取り扱わせていただいております」
皆瀬は書類を一枚、両手で書記官の正面に置いた。角がまっすぐ揃っていた。
「同定できないという鑑定意見そのものを、記録に残していただくことは差し支えありません。ただし、それ以上の解析請求につきましては、再生済み案件の追加処理に該当いたしますので、規定によりお受けできません」
弁護人が何か言いかけて、手元の書面を見た。書面には書いていないことだったのだろう。彼は座った。
裁判長がうなずいた。それで終わりだった。
冬坂は証言台を降り、記録を揃えた。一度だけ、指の腹で紙の端を叩いた。
この映像は、二か月前に一度だけ取り出された。取り出したのは自分ではない。誰が取り出したのかも、記録には残っているが、この法廷では読まれない。
映像は一度しか取り出せない。あの脳に残っていたものは、もう何も残っていない。
その一行を、冬坂は法廷を出るまでに三度、頭の中で繰り返した。三年間、同じ一行を繰り返している。繰り返して何かが片づくわけではない。片づかないから繰り返している。
***
廊下は暖房が効きすぎていた。
法廷の扉が閉まる前から、次の事件の関係者が並んでいた。壁際のベンチに三人、その先に二人。誰も話していない。
「先生」
振り返ると、女がいた。傍聴席から出てきたばかりらしく、コートを着たままだ。片手にコンビニの袋を提げ、もう片方の手に、包装を剥いた握り飯を持っている。
法廷の中で食べていたわけではないだろう。だが、出てから剥いたにしては早すぎた。
「三十秒に犯人が映ってない事件、興味ある?」
名乗りもなかった。冬坂は少し黙った。
「……どういう意味でしょうか」
「そのままの意味。被害者の名前は須賀沼敬一。五十七。先月の二十三日に自分の事務所の裏で死んでる。頭を殴られてて、再生は期限内に済んでるわ」
女は握り飯をひと口食べ、飲み込んでから続けた。
「三十秒、全部見た。誰も入ってこない。誰も出ていかない。あるのは倒れてる本人の視界だけ」
冬坂は廊下の窓の方へ一歩ずれた。人が通ったからだ。
「加害者が、映っていない」
「そう」
「それは弁護側に有利な事実です。映像は証拠として採用されているんですね」
「されてる。でも有利じゃないわ」
冬坂は女の顔を見た。
「検察はね」女は袋を持ち直した。「うちの依頼人が、そのとき現場の死角にいたって言ってるの。映ってないのは、映らない位置にいたからだって。で、依頼人には別の時刻のアリバイがあるんだけど、時刻が違うって理由で相手にされてない」
冬坂は答えなかった。
「郷田実。五十一歳。須賀沼とは十年来の取引相手。今のところ、殺したことになってる」
「……鑑定を、ということですか」
「弁護側の鑑定人として。あなた、公認再生技師の資格は返上してるけど、証言はできるでしょ?」
「できます。再生には関与できません」
「する必要ないわ。もう終わってるから」
女はようやく名刺を出した。コートの内側から、指を二本入れて一枚だけ抜いた。指先が少し湿っていた。鵜沢律子、と印字されている。
名刺の角が一箇所だけ丸くなっていた。束の底に長くあったものらしかった。
冬坂は名刺を受け取り、そこに書かれた事務所の住所を読んだ。読み終えてから、記録の束と一緒に揃えて上着の内側にしまった。
「記録を見てから決めます」
「それでいいわ。明日の九時。事務所」
鵜沢は歩き出し、三歩で止まった。
「先に言っとくけど、私は真相には興味ないから。無罪が取れればそれでいいの」
「知っています」
「なんで?」
「弁護人は、そういう仕事です」
鵜沢はフッと笑い袋の中を覗き込み、それから顔を上げた。
「先生、さっきの異議。同定できないってやつ」
「はい」
「あれ、通ったところで何か変わったの?」
冬坂は少し考えた。
考える必要はなかった。答えは分かっていた。それでも、すぐに言うのは違う気がした。
「いいえ」
「でしょうね」鵜沢は袋の口を縛った。「で、それで勝てる?」
答える前に、彼女はもう歩き出していた。
冬坂は廊下に残った。ベンチの三人が立ち上がり、法廷の扉のほうへ移動していく。次の事件が始まる。
入れ替わりに、さっきの年配の女が出てきた。ハンカチはもう手になかった。誰も付き添っていなかった。彼女は廊下の中ほどで一度足を止め、それから出口のほうへ歩いていった。
冬坂は、その背中が扉の向こうへ消えるまで見ていた。
なぜ見ていたのかは、自分でも分からなかった。分からないまま、見終わってから廊下の窓のほうへ向き直った。
法廷の扉が閉まる音が、廊下の奥で一度だけ鳴った。
三十秒に、犯人が映っていない。
その一言だけが、まだ廊下にあった。




