無我の境地
新月の夜空の下で、叶得は次の標的を探す。闘争心に満ちた彼女は、まるで飢えた獣のような風格を放っていた。一先ず、彼女は街の中央にある広場を訪ねた。そこに赴けば、誰かしたプレイヤーが来ると考えたからだ。それから数十分後、その場には海斗と彼方が到着した。闘争に生きる叶得には、理解できる。眼前の二人組に、戦意はない。
海斗が話を切り出す。
「はーっはっはっは! 今回は、大悪党が正義の味方と共闘するアツい展開だ! つまり何が言いたいかって? 俺様は彼方と同盟を結び、かつての社会基盤を取り戻すという望みを共有した! 君にも協力してもらうぞ、叶得!」
されど叶得は、社会の仕組みなどに興味がない。
「どいつもこいつも、うろたえすぎだ。元から既得権益が蔓延っていた世界に絶対者が生まれたところで、本質は何も変わっていないだろ」
そう切り返した彼女は、首と指の関節を鳴らす。彼女には、戦う以外の選択肢などないのだ。
直後、叶得は海斗のすぐ目の前に移動した。彼女の手刀を首に食らい、海斗は即座に崩れ落ちる。
「月島海斗、柳田叶得の手により戦闘不能デス。これより、転送を開始しマス」
静けさを極めた夜の街に、いつもの無機質な音声が響き渡った。海斗の身は光の粒子と化し、天へと昇っていく。油断の許されない状況で、彼方は語り始める。
「美美の放送を聞きました。先ほど、君は綾川さんと戦っていたみたいですね。紫外線により細胞が炎症し、免疫機能が低下していますよ」
無論、彼の手の内を知っている叶得は、その手には乗らない。
「キミの曲解の対象はノセボ効果――そうだろう」
「ほう……何故そう思うのです?」
「ボクが過集中に入った時は戦えた。海斗も、君の説明が頭に入らなかったから戦えた。仕組みさえわかってしまえば、キミを恐れる必要はない!」
そんな強気な宣言をした彼女は、瞬時に拳を突き出した。彼方はトレンチコートの内ポケットからメスを取り出し、抜刀術のように拳を切りつける。鮮血が飛散する刹那は、両者の目にはスローモーションのように見えていた。
「嘘をつかなくとも、私の曲解は機能しますよ」
「なんだと? そんなわけないだろう。だって、ボクはキミの言葉を信じはしない」
「自覚できる症状を引き起こせば、それを媒介にノセボ効果をもたらせる。それだけのことです」
今回はいつものブラフではない。例え言葉が信じるに値しないものであっても、自覚症状は何よりも信じてしまうものだ。
――突如、叶得は急激な疲労と痛みを感じた。
無論、それは彼方の曲解によるものである。元々そこにあった苦痛が、知覚していることによって更に悪化したのだ。さりとて、ここで引き下がる叶得ではない。一旦、彼女は深呼吸を挟む。それから頻りに間合いの角度を変えつつ、彼女は打撃、回し蹴り、かかと落とし、肘打ちなど――考え得るあらゆる体術を発揮していく。その挙動が激しく、同時に精密になってきたことにより、彼方は確信する。
柳田叶得は今、ゾーンに入っている。
これは無我の境地――またの名をフロー状態と云う。その状況に達した者は驚異的な集中力を発揮し、一時的に我を忘れるのだ。眼前の強敵を倒すことにだけ集中している叶得は、自らの痛みも疲労も知覚しない。この境地に至った彼女の猛攻により、彼方は徐々に押されている有り様だ。無論、彼も決して反撃しないわけではない。彼は確かにメスを振り回し、目の前の戦闘狂の全身に切り傷を刻んでいる。それでも痛みを感じていない叶得は、彼方のこめかみに強烈な蹴りを繰り出す。
「……!」
この一撃により、彼方は落ちた。
「夢宮彼方、柳田叶得の攻撃により戦闘不能デス。これより、転送とインターバルを開始しマス。残るプレイヤーは、後二名デス」
美美がそう告げた時、叶得は無我の境地による多幸感に浸っていた。




