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第3話 線からの尾行

カーテンのない窓から差し込む薄明が、冷たいフローリングを青白く縁取っている。


枕元の小さなデジタル時計が「05:50」を示す少し前。

いつも通り、アラームが鳴る前に空屋は目を覚ました。


音を立てずに起き上がり、簡易マットレスを畳んで、枕とパジャマをボストンバッグへ詰め込んだ。

しばらく、自分が横になっていた場所を見つめる。


ビジネスバッグからハンディタイプの粘着ローラーを取り出し、ゆっくりと転がした。往復させ、角をなぞり、もう一度同じ場所を通る。


髪の毛一本残さない。


玄関まで廊下。

床に膝をつき、斜めから光を当てる。


埃は動いていない。


最後に靴を履き、玄関扉に耳を寄せる。


……バイクが走り去る音。

……隣の棟で誰かが咳き込む。

……それ以外は、沈んだままの静けさ。


空屋はドアをゆっくり開け、外の空気を数ミリの隙間から流れ込む冷たい空気を感じる。そして、人の気配がないことを確認し、滑り込むように外へ出た。



外の空気は平日の朝よりも遅く動いている。

通りにはまだ人影がまばらで、駅前へ急ぐ足音もない。


空屋は朝の空気を堪能するように、ゆっくりと散歩を楽しんだ。


まだシャッターの下りたままの店も多い。コンビニの前では、作業着姿の男たちが缶コーヒーとタバコを手に、もう片方でスマホをいじっている。


そんな日常の風景を眺めながら、空屋はそのまま改札へは向かわず、駅前にある赤坂と同じチェーンのフィットネスジムへ向かった。


いつものように、シャワー室へ入り、体に纏わりついた匂いを流し、髪を整え、着替える。


鏡の前で一瞬だけ自分を確認し、視線を外した。


そのあとは近くの喫茶店へ。

トーストにゆで卵とサラダ付きのモーニングセットを注文。


店内に流れるジャズの名曲。挽き立てのコーヒーの香り。新聞をめくる音。食器が触れ合う小さな音。すべての雰囲気という音を体内に感じ取りながら、リラックスし、賃貸サイトの一覧をスクロールする。



コーヒーを飲み干し、店を出ると、午前の街はまだ静かだった。


「さて、、、」


綾瀬方面へ出やすい位置にいる日は、登録住所のポストを確かめに行くこともある。

重要な郵便物はそうだが、チラシも取り出し、ビジネスバッグに一度入れ、すぐにその場を立ち去る。


そのあとはフリータイム。昼の時間は特に決めておらず、映画館に立ち寄ったり、観光地に行くこともある。


夕方になると銭湯へ。普段はシャワーがメインなので、ここで一週間の疲れを一気に吹き飛ばす。


そして夜は、いつもどおり大衆食堂か居酒屋で食事を済ませる。

店を出ればここから先は、いつも同じだ。


――だが今日は違った。


朝、喫茶店を出て、数歩歩いたところでふと、通りの窓ガラスに目をやる。

そこに映る街の動きを、しばらく眺めていた。


空屋の頭の中では、すでに別の時間が動き始めていた。


「……順番を変えるか」


そして、耳介筋がわずかに動いたと同時に歩を進めた。

空屋が向かった先は––––漫画喫茶だった。



昼どきの六町駅前は、ゆるい空気に満たされていた。


久比留間は駅を背にして歩き、商店の並ぶ通りにある、赤い暖簾の中華食堂に入った。ガラス戸を引くと、油とスープの匂いが流れてくる。


「いらっしゃい」


短く返事をして、空いている席に座る。


テレビは昼の情報番組が流れ、そこに中華鍋を振る音、食器の触れ合う乾いた音が飛び交っていた。


久比留間はすぐにラーメンと半チャーハンを頼むと、水を一口飲み、壁のメニューをぼんやりと眺める。視線はそこにあるが、文字は頭に入ってこない。


「……うーん」


頭の中に纏わりついているのはあの男。空屋転乃助の顔が浮かぶ。


しばらくして、頼んだ料理が運ばれてくる。湯気が立ちのぼるを見てすぐ我に帰り、久比留間は淡々と飯を食べ始めた。


味は分かる。だが、それ以上は残らない。食べ終えるころには、頭の奥に残っていたものだけが消えずにいる。


「ごちそうさん、丁度ね」


「はい、ありがとうございます」


会計を済ませ、外へ出ると、通りの光がわずかに眩しい。

その流れで、久比留間はパチスロ店に入った。


電子音。硬質なメロディ。規則的に落ちるメダルの音。画面を見つめながら、指は機械的に動く。しかし、意識は別の場所にある。


気づけば、時間だけが過ぎていた。


「……はぁ、なんかモヤモヤすんな」


久比留間は、出口の多い地下鉄に迷い込んだような顔で席を立ち、店を出た。



ポケットの中のスマートフォンを取り出し画像フォルダを開くと、侵入した資料室で撮った空屋の登録先住所があった。


「……行ってみるか」


スマートフォンをポケットに戻し、久比留間は歩き出した。



六町駅から歩いて20分くらいのところだった。


「……っえ? ここか」


目の前にあるのは、戦後に建てられたような古い木造アパート。外階段の塗装は剥がれ、鉄の匂いがわずかに残っている。隣の家に半分ほど日差しを遮られ、昼間でも少し暗い。


久比留間はしばらくその建物を見上げていた。


「マジかよ、拍子抜けだな。でも、住所とアパート名は合ってるしな」


周囲を確認してから、ゆっくりと敷地内へ入り、階段を一段ずつ慎重に上がっていく。ここ、松野荘は一階二階と六部屋あり、どの部屋にも生活音という感じがしない、静かなところだ。


「……203」と、小さく呟きながら空屋が住んでいる部屋の前まで行く。


郵便受けにはチラシが数枚差し込まれている。


「いまは居ないのか……」


久比留間はしばらくそのまま立っていた。


(……やはり何も分からない)


踵を返そうとした、そのときだった。


––––ガチャ。


隣のドアが突然開いた。久比留間の肩が小さく跳ねる。


出てきたのは、薄いシャツにサンダル履きの老人だった。


その老人は久比留間の顔をじっと見つめ、数秒後に小さく顎を引いた。


「どうも」


久比留間は一瞬遅れて、「……どうも」と返した。


老人はそれ以上何も言わず、ゆっくりと階段の方へ歩いていく。

手すりを掴みながら、一段ずつ降りていく音が遠ざかった。


久比留間は小さく息を吐いた。周囲はまた静かになる。

もう一度、目の前のドアを見る。


すると、久比留間はしゃがみ込み、指先でわずかに隙間を広げる。奥にあるのは、冷え切った闇だけだ。郵便受けを抜ける冬の風のような音が、久比留間の耳元で嘲笑うかのように鳴った。


やはり何も分からない。何も変わらなかった。


立ち上がって、久比留間は踵を返す。階段の手前、もう一度だけ振り返えるが、二階の廊下は静かでさっきまでそこに立っていた自分の姿だけが、わずかに残っているような気がした。


「なんも収穫得られずか……」


午後の光が、アパートの壁を白く照らす。胸の奥のモヤモヤは、晴れるどころか、実体のない霧のように濃度を増していた。久比留間は再び、六町駅の方へと歩き出した。



週明け。月曜のオフィスは、週末の澱みを吐き出すような無機質な活気に満ちていた。


キーボードの打鍵音。コピー機が吐き出す熱。短い着信音。

久比留間はデスクに座り、モニターに並ぶ未読メールを眺めていたが、意識の端には常に「203号室」のあの冷え切ったドアがこびりついている。


「……」


コーヒーを一口。舌に残る苦味が、昨日の空振りを思い出させた。

午前の業務が一段落した頃、久比留間は立ち上がり、部下のデスクへ向かった。


「遠藤、パッチ修正、今日の午後までに――」


言いかけたその時、背後から気配もなく声が降ってきた。


「課長。それ、すでにやっておきました」


振り返ると、空屋が立っていた。いつものように、皺ひとつないシャツ。整えられた髪。


「……えっ? ま、まだ、指示も出していないぞ」


「遠藤さんの進捗から逆算して、次に来るタスクを予測しておきました。私のデスクの共有フォルダに格納済みです。エビデンスも添えてあります」


空屋は淀みのない動作で、久比留間のデスクまで歩み寄った。


「報告を兼ねて、一応プリントアウトしたものを持参しました。こちらです」


「……ぉお……助かる」


久比留間が書類を受け取る隙に、空屋の視線は久比留間のデスクの上を滑るように動いた。開かれた手帳、置かれたタバコの銘柄、そして——引き出しの鍵の束。


「……問題なさそうだな」


「よかったです。早めに終わらせておけば、午後からの定例会議に集中できますからね」


空屋は軽く会釈し、音もなく自分の席へと戻っていく。


(……わざわざデスクまで報告に来るような奴か? 隙を見せているのか、それとも、俺を観察しに来たのか)


モニターに視線を戻すが、数秒後。

久比留間は無意識に、空屋の方へ目を向けていた。



昼休み。


久比留間はコンビニで買った淹れたてのコーヒーを手に、ビルのエントラスへ向かった。すると、数メートル先にあるベンチでパンを片手に、スマートフォンを熱心に眺めている空屋が目に入った。


(……いつも、あんなとこで飯食ってんのか?)


久比留間は自然と足音を殺し、空屋の背後に立った。


「空屋」


「っ……!」


空屋の肩が、目に見えて大きく跳ねた。

持っていたスマートフォンが手から滑り落ちそうになり、空屋は慌ててそれを両手で押さえ込んだ。あんなに狼狽した空屋を、久比留間は初めて見た。


「……か、課長。驚かさないでください」


「……すまん、悪いな……えーっと、さっきの資料、助かったよ」


「……いえ」


空屋が慌てて画面を消す直前。

久比留間の網膜には、鮮明な「★」のマークが焼き付いた。

賃貸サイトの、戸建て物件一覧。その中の一つに付けられた、お気に入り登録の印。


(戸建て……? 独り身で、綾瀬のボロアパートに住んでいる奴が、なぜ戸建てを?)



退社時刻。

職場の照明がオレンジ色に切り替わり、残業する数人の影が壁に長く伸びている。


久比留間は一人、喫煙室の換気扇の下にいた。

紫煙を吸い込み、肺に重く溜める。

隣では、他部署の社員が二人、深刻そうな顔で話し込んでいた。


「また出たらしいよ、不法侵入」


「またって、最近よくあるの?」


「うん、それも郊外とかが多いらしい」


「へー。被害額もすごいの?」


「これが、なんにも被害がないんだよ。てのも、空き屋だけの犯行らしい」


「空き屋? どんなメリットあんだよ」


「いやぁ、知らんけど気持ち悪いよな。鍵も開けた形跡がないらしいよ」


「もしかして寝泊まりとか? 誰かが寝泊まりした痕跡だけ残して、朝には消えてるってやつ」


「それだけのために?いや、だったらカプセルホテルとかにすればいいのにな」


……不法侵入。

……何も盗まない。

……鍵を開けた形跡がない。


久比留間の脳内で、点と線が繋がった。

綾瀬のアパートの生活感のなさ。

昼休みに眺めていた、新築戸建ての★マーク。

そして、あの完璧すぎる、汚れひとつない清潔感。


「……まさか」


久比留間は、燃え尽きかけた煙草を灰皿に力強く押し付けた。

それは確信でもあった。



その日、久比留間は珍しくノー残業でフロアを後にした。

胸の内で膨れ上がった仮説を確かめるには、あいつの「後ろ姿」を追うしかない。


ビルの出口から少し離れた街灯の陰。久比留間は、獲物を待つ野良犬のように身を潜めた。やがて、空屋がいつもの無機質な足取りで現れる。


(……まずは、どこへ行く)


空屋は慣れた様子で、駅の隣にあるフィットネスジムの自動ドアへ吸い込まれていった。久比留間は道路を挟んだ向かい側のファストフードへ駆け込み、窓際の席からその入り口を凝視した。




……十五分後。


「っ……もう出てきたのか?」


久比留間は思わず身を乗り出した。着替えとシャワーだけであれば不可能ではないが、あまりにも早い。何をしにジムへ入ったのか。

急いで店を出て、後を追う。


空屋はいつもどおり、近くのコインロッカーへと直行し、そこで大きなボストンバッグを取り出す。


「なんだ? 旅行に行くような大きさだな」


久比留間は心臓の鼓動を抑えながら、一定の距離を保って後を追った。

てっきり、毎朝のように千代田線の改札へ向かうものだと思っていた。綾瀬へ帰るのなら、それが最短ルートだ。


だが、空屋が向かった先は、オレンジ色の看板の前。

——丸ノ内線、赤坂見附駅。


(……友達か。誰かと会うのか)


久比留間は小さく息を吐いた。

考えても仕方ない。


電車が滑り込んでくる。空屋が乗り込み、久比留間も一つ隣の車両のドアから滑り込んだ。連結部の窓から覗き見る空屋の横顔は、オフィスでの「完璧な部下」の仮面を剥ぎ取り、静かな、しかし飢えた捕食者のようなかたちをしていた。


(どこへ行く、空屋……)


久比留間の独白は、地下鉄の激しい駆動音にかき消された。

列車が加速する。


二人の距離は縮まらないまま、丸ノ内線の深い闇へと吸い込まれていった。

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