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第2話 新築分譲住宅、セキュリティ解除編

夜の住宅地は、まだ完成していない街の匂いがした。


アスファルトの乾いた砂っぽさと、剥き出しの建材が放つ新しい木の香りが、冷えた夜気に混ざり合っている。整然と並ぶ新築の戸建て。そこにはまだ、生活という名のノイズが入り込んでいない。


空屋 転乃助は、一軒の邸宅の前で足を止めた。

玄関脇。月光を弾いて、青白く光るセキュリティステッカーがある。


都市を守る鉄壁の番犬。そのロゴを見つめる空屋の口元がわずかに緩む。


誇示でも嘲笑でもない。ただ、境界線の存在を確認したときの静かな愉悦。


空屋はゆっくりと目を閉じ、深呼吸をした。

肺の奥が、冷たい静寂で満たされていく。ここにはまだ、誰もいない。所有者は決まっていても、魂はまだ吹き込まれていない。


「……始めるか」


独白が闇に溶け、彼が目を開けたとき、その瞳からは一切の熱が消えていた。



「空屋さんって、どこに住んでるんですか?」


雑談の延長のような軽い声だった。


空屋はモニターから目を離さず答えた。


「……綾瀬のほうです」


「綾瀬なんですか? え、意外。港区とか、もっと都心の方かと思ってました」


「うーん、電車も一本で来れるし、、、それに、家賃安いんで」


周囲に笑いが起こる。


「通勤大変じゃないですか?千代田線ってよく遅延するし」


「慣れてますよ」


軽く肩をすくめる。


その何気ない会話の背後、少し離れた席に座る久比留間 透が、モニター上から覗き込むように見ていた。


「綾瀬……」


(たしかに、赤坂へのアクセスは悪くない。だが、空屋 転乃助という「完璧な記号」が、あの下町情緒の残る場所に根を下ろしている姿が、どうしても想像できない)


久比留間は再び、無機質な画面へと視線を戻した。



昼休み。いつものビル脇の広場で、空屋はベンチに腰掛けていた。


スマホから表示されていたのはいつもの賃貸アプリではなく、写真フォルダ。

そこに並ぶのは、夜の新築分譲地の写真だった。


街灯のない闇に、整列した屋根の輪郭。センサーライトの配置。


ここは以前、空家が新百合ヶ丘の「宿」へ向かう途中に見つけた広大な更地に建築したばかりの分譲住宅だった。


写真を一枚ずつ拡大する。

給湯器の位置、二階ベランダの庇の影、窓の配置間隔。

すべてが頭の中に地図として刻まれている。


指をスワイプするたび、別の角度の写真が現れる。ストリートビューと現地下見の合成画像。施工会社のロゴ入り仮看板。巡回車のナンバーなどは、メモアプリに記録済み。


赤外線の高さ。

玄関開閉の遅延。

夜間モード移行時間。


(……エントリーディレイはデモ設定で90秒、、、)


––––思考は短い断片で処理されていく。


「緊急連絡先は……」


空屋の表情は、パズルのピースを埋めているときの、子供のような無邪気な愉悦に満ちていた。


写真を閉じ、空を見上げる。


ここ数日、わずかな違和感があった。生活の歯車が狂うほどではない。

ただ、どこか滑らかさを欠いている感覚。


あの夜、偶然見かけた新築の分譲地。

胸の奥で静かに何かが噛み合った。


刺激が欲しいわけではない。

昂揚を求めているのでもない。


これは――整備だ。


車が定期的に”オイル交換”を必要とするように、

自分の内部にも、定期的な負荷が必要なのだと。


空屋はそう理解していた。



定時のチャイムが鳴ると同時に、空屋は静かに席を立った。


椅子の脚が床を擦る音すら立てない。

キーボードを整え、マウスを定位置に戻し、モニターをスリープにする。

一連の動作は無駄がなく、まるで一日の終業手順がプログラムされているかのようだった。


背後では、社員たちの声がゆるやかに広がっていく。


「今日どこ行く?」

「新橋のいつもの店?」

「北青山に新しく出来たおでん屋も気になる」


笑い声。

椅子の移動音。

カバンのファスナーの音。


日常の音が、フロアに満ちていく。


久比留間 透はデスク周りを片付けながら、その背中が消えていった出入口の方向を一瞬だけ見た。


整然と片付けられた空屋の席。

残された気配の薄さ。


「……」


小さく息を吐き、ネクタイを緩める。


パソコンの電源を落とし、書類を鞄に入れる。

周囲の雑談に加わるでもなく、ただ帰り支度を進めた。


フロアのざわめきは続いている。


だが久比留間の耳には、別の静けさが残っていた。



電車の扉が閉まると、久比留間は吊り革を掴んだまま、窓に映る自分の顔をぼんやりと見ていた。


昼間の会話が頭の中で引っかかっている。


『……綾瀬のほうです』


久比留間は加平のワンルームマンションに住んでいる。綾瀬は生活圏の延長だ。

スーパーの袋を提げた家族連れ。

自転車に乗った中学生。

夜になるとコンビニ前にたむろする若者。


湿った生活の匂いがある街だ。


だが空屋からは、そうした匂いがまったく感じられない。


あの男の服には生活の皺がなく、疲労の影もない。

通勤電車の空気に染まった気配すら残らない。


綾瀬に住んでいるような人間の質感ではない。


窓の外を流れる街灯が、一定の間隔で車内を照らしては消えていく。


久比留間は眉間を指で押した。


「……近いんだよな」


近いからこそ、気になる。


電車が減速する。


もし同じ路線、同じ時間帯で生活しているなら、どこかで交差しているはずだ。

だがその痕跡が、ない。


ドアが開き、人の流れが動く。久比留間はホームに降り立ちながら、胸の奥に残るざらつきを振り払えずにいた。



「おう、透。おつかれ」


「おつかれ、直人。元気だったか」


六町駅前の中華食堂。

久比留間は学生時代からの友人と、いつもの距離で向かい合っていた。


「とりあえず、瓶ビール頼むか」


「うん、それでいいよ」


久比留間はラーメンと餃子を。直人はチャーハンとレバニラ炒めを店員に告げた。


やがて運ばれてきた瓶ビールの栓が抜かれ、グラスが触れた。


「課長の業務ってのは相変わらず忙しいか?」


「そりゃな。お前は?」


「クレーム処理の連続だよ。顔色いいだろ」


久比留間は笑った。


しばらくは仕事の愚痴が続いた。

やがて久比留間は餃子を一口食べ、ビールで流し込んだあと言った。


「うちの会社にさ……完璧な奴がいるんだよ」


直人はチャーハンを口に運びながら眉を上げる。


「完璧?」


「仕事できる。顔もいい。気が利く。女にも困らない」


「ふーん。売れっ子若手俳優みたいだな」


久比留間は更にビールを飲む。


「上司にも好かれてて、部下にも信頼されてる」


「まぁ、すごいけど……普通に優秀な社員だろ」


久比留間は少し黙った。


「……でもな」


直人は続きを待つ。


「違和感があるんだよなぁ」


厨房で中華鍋が鳴る。


「空気に溶け込んでるのに、存在感が薄い」


「逆じゃねぇの?」


「いや……」


久比留間は言葉を探すように視線を落とした。


「完璧に溶け込んでるのに、“生活してる感じ”がしない」


直人は少しだけ動きを止めた。


「あー、生活感がないってこと?」


「そう、皺がないんだよ。疲れた顔もしない。通勤電車の匂いもしない」


「……それは確かに、すごいというか、違和感は感じるかもな」


「それに、作られてる感じがする」


テレビの笑い声が店内に響く。


直人はビールを飲み干し、すぐにハイボールを注文したあと言った。


「透さ」


「ん?」


「そいつが気に入らないだけじゃねぇの?」


久比留間は一瞬、言葉を失った。


餃子を口に入れ、咀嚼する。


「……うーん、かもな」


直人は笑った。


「完璧な奴なんて信用できねぇ。欠点があって人間だからな」


久比留間はラーメンの湯気を見つめた。


「直人、でもな」


「まだあるのかよ」


「綾瀬に住んでるって言うんだ」


直人は首を傾げる。


「だから?」


「俺、加平だろ」


「うん」


「近いんだよ。 なのに、あの街の匂いがしない」


直人は静かに息を吐いた。


「……透」


「なんだ」


「それ、気になるやつだな」


透は苦く笑った。


「だろ」


店員が皿を下げる音がした。


外では電車が通過していく。


久比留間の胸の奥に残る違和感は、言葉にしても消えなかった。



更地の分譲地。辺りは月が雲に隠れて真っ暗だった。

そこには、躊躇なく敷地内に足を踏み入れる空屋 転乃助がいた。


目標は真ん中の棟。

隣家がまだ建っていないため、視線が届きにくい。


給湯器の横に身を寄せ、ユニットのわずかな残熱を感じる。

昼間に試運転された証拠だ。


その温もりが、赤外線センサーの最下部ビームをわずかに狂わせることを、彼は計算済み。


「……ふぅ、、、」


空屋はゆっくりと深呼吸をし、いつものように目を閉じた。


瞼の裏に、まだ見ぬ室内が浮かび上がる。

新築特有の木材の香り。モデルルーム限定の家具と絨毯。


右手が、無意識にズボンの上から股間に触れた。

存在を確かめるように、静かに圧をかける。


暗闇の内部へ、自分という異物を滑り込ませる瞬間。

その想像が、背骨に沿って静かな痺れを残す。


数秒。


やがて指先の力を抜き、ゆっくりと目を開いた。


「……さて」


まず、空屋は鞄から取り出した薄い黒綿の布を頭から被った。


熱を完全に遮断するような特殊な素材ではない。ただ、最新のセンサーが「人影」として認識する輪郭を、数秒だけ曖昧にぼかす。その数秒があれば、彼には十分だった。


移動は、這うようにして行われる。


肘と膝だけでアスファルトを捉え、センサーライトが描く死角の境界線を、外科手術のような正確さでなぞっていく。玄関ポーチの手前、ライトの光が届かない闇の淀みで、彼は一度動きを止めた。


(ここからが、本番だ)


胸の奥で、静かな熱が沸き上がる。

ビジネスバッグから取り出したのは、極細の非接触リーダー。電子錠の僅かな隙間にそれを滑り込ませた。SEとしての知識を総動員し、逆探知して解析したプロトコル。空屋にとって、この最新のセキュリティシステムは、ただの「脆弱性検証」の対象に過ぎない。


カチリ。


無機質な音が、夜の空気に鋭く溶けた。


ドアが、わずか二センチだけ開く。

密閉されていた室内の空気が、外気と混ざり合い、静かに動き出した。


新築特有の、接着剤と木材、そして塗料が混ざり合った「未使用」の匂い。まだ誰も住んでいない、誰の体温も残っていない、完全な「空白」の匂いだ。


空屋は身を滑り込ませると、即座に壁の操作パネルへ視線を走らせた。

『警備待機中』

青く弱々しい点滅。


(ドア開閉検知。エントリーディレイ、開始。カウント、九十秒)


空屋は動かない。暗闇の中に、彫像のように立っている。


”ピピッ”


パネルが短く鳴る。

三十秒経過。五十秒。七十秒。

やがて、パネルが低い警戒ブザーを鳴らし始めた。


『異常を検知しました。ガードセンターへ通報します』


合成音声のアナウンスが、誰もいないリビングに響き渡り、空気を微震させる。


空屋はリビング横のウォークインクローゼットへ直行した。

ドアを指一本分だけ開けて身を潜め、完全に息を殺す。棚の影に体を寄せると、黒い服が深い闇と同化した。

通報はすでに行われた。施工会社の管理用端末は、この時間は留守電設定だ。ガードマンの出動確率は、経験上、極めて低い。



五分後。


遠くから、低いエンジン音が近づいてくる。

フロントライトの冷たい光が窓を掠め、静かに止まった。


ガードマンが二名。家の外周を回る、硬い靴音。ドアノブをガチャガチャと回し、施錠を確認する音。窓をライトが照らし、光の帯がクローゼットの隙間を横切る。


低い無線連絡の声が聞こえた。


「……異常なし。施錠確認。痕跡なし。センサーの誤作動と思われるので引き上げます」


数分後、エンジン音が遠ざかり、夜は再び静寂を取り戻した。


すると、クローゼットの扉がゆっくりと開いた。パネルからは、まだ規則正しい拒絶のリズムでブザーが鳴り続けている。


クローゼットから出た空屋は、リビングの中央へと歩み出た。

そして、そのまま吸い込まれるように、搬入されたばかりの真っ新な絨毯の上に仰向けに倒れ込んだ。


フローリングよりも柔らかく、皮膚を拒まない感触。

天井のダウンライトが、窓から差し込む月光を受けて、ぼんやりと輪郭を失っている。


新築の絨毯の匂いと、耳の奥に残る警報のエコー。


(退散確認。残り時間……十分)


ゆっくりと目を閉じる。


心臓の鼓動が、静かに、しかし力強く部屋を満たしていく。

スリルは、クローゼットの窒息するような緊張から、リビングの圧倒的な開放へと移り変わり、より深く、甘く、彼の全身を巡る血の質を変えていく。


これこそが、空屋 転乃助が求めていた「オイル交換」だった。

磨り減った精神の隙間に、新鮮なスリルが注ぎ込まれ、精密機械が再び滑らかに駆動し始める。


「……素晴らしい」


空屋は、闇の中で静かに、恍惚とした笑みを浮かべた。



午前六時三十分、新百合ヶ丘駅前。


空屋は静かに歩き、始発に近い電車へ乗り込み、赤坂へ戻る。


コインロッカー。

ジムのシャワー。

整えられる外見。

再構築される人格。


九時。


彼は再び、完璧なエンジニアとしてフロアに立っていた。



朝の会議中。


久比留間は資料の文字を追いながら、別のことを考えていた。


会議が終わると、彼は自席に戻らず、廊下の奥、エレベーターホールを抜け、別棟へ続く連絡通路を渡った。


そこはセキュリティ課のあるフロア––––個人情報管理室


受付デスクの奥で、若い社員が端末に向かっている。


「海沼、ちょっと」


海沼は顔を上げ、すぐに姿勢を正し、久比留間の元に向かった。


「久比留間さん。どうしたんですか」


「頼みがある」


声を落とす。


「個人情報管理室、開けてほしい」


海沼の表情が固まった。


「……何言ってるんですか、無理ですよ。あそこは正式申請がないと通せません」


「そんなことはわかってる。だからお前に頼んでるんだよ」


「いやぁ……監査ログも残りますし、勝手に開けたら自分、終わります」


久比留間は少し黙った。


フロアの空調音だけが耳に残る。


「……六本木のアゲハ」


海沼の肩が微かに動いた。


「……え?」


「結構、大金ばら撒いてるらしいな」


「な、なんでそれを……」


「家庭的な愛美さん、ほったらかして……」


久比留間は視線を外したまま言った。


「そうだ。愛美さんから自宅パーティーの誘いの返事まだしてなかったな」


海沼の喉が上下する。


「……」


数秒後、深く息を吐いた。


「……わかりましたよ」


久比留間は表情を変えずに続けた。


「助かる。 実はな、管理室に入ったら社員の個人データにアクセスしたいんだ」


海沼は顔を引き攣らせた。


「冗談じゃないですよ! あそこは生体認証と、、、」


「お前なら、やりようがあるだろ。警備会社との連携テスト中とか適当な理由をつけてさ」


「いやぁ、でも……」


十五秒ほど沈黙し、やがて震える手で内線電話を取った。


「……あ、お疲れ様です。セキュリティ課の海沼です。はい、地下のデータストレージで、センサーの同期ズレが発生してまして。ええ、今から現地でオーバーライドをかけます。……はい、そちらのモニターには『メンテナンス中』と表示されますので……はい、了解です」


受話器を置いた海沼の額には、嫌な汗が浮かんでいた。


「……五分、いや三分です。今、そこの警備員を別件の点検で外させました。その隙に、受付に予備のマスターカードを置いておきます」


海沼は足早にカウンターを離れ、さらに奥の警備待機室へと向かった。


数分後、彼は別の入り口から戻ってくると、久比留間の目に届く場所に、一枚のICカードを静かに置いた。


「……今、資料室の監視カメラをループ再生(偽装)に切り替えました。端末のログ消去もこちらでやります。……でも、三分過ぎたら、僕は強制的にアクセスを遮断しますからね」


「助かる」


「今度銀座で寿司奢ってくださいね!」


「寿司でもなんでも奢るよ」


その声は軽かった。


久比留間はカードを掴むと、廊下の突き当たりにある重厚な鋼鉄の扉へと走った。


”ピピッ”


ひんやりとした静寂に包まれている管理室で久比留間は迷わず、管理者用の専用PCの電源を入れる。


暗い部屋で、モニターの青白い光が、彼のギラついた瞳を照らし出した。


『社員データベース・アクセス許可』


すぐに検索窓に「空屋 転乃助」と打ち込む。

ロード中のアイコンが数秒、永遠のように回り続けた。


そして、表示された住所。


––––東京都足立区綾瀬2-15-4 松野荘203


「……綾瀬。本当だったのか」


その瞬間、久比留間の口元がゆっくりと歪む。

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