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第1話 ルーティン

電気がつかない家は、生活音という概念が失っているようで、神秘的な空間のようにも感じる。



第1話 空屋あきや 転乃助てんのすけのルーティン


* * *


廊下からリビングへ、使われていないキッチンを横目に、乾いた浴室を通り過ぎる。二階へ上がると、いくつかの部屋が静かに並び、そのうちの一室に男が横になっていた。


カーテンのない窓から満月の光が差し込み、床の一角だけを淡く照らしている。


男はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。この空間を、確かめるように、味わうように。


ここには誰の所有もなく、誰の干渉もない。

ただ、何もない時間だけがある。


やがて男は目を閉じ、深くなっていく呼吸とともに、眠りへと沈んでいった。



 赤坂Bizuタワーズの二十二階。午後の陽光が全面ガラス張りの壁から差し込み、フロアを無機質な明るさで満たしている。


空屋あきや 転乃助てんのすけの指先は、吸い付くようにキーボードの上を滑っていた。


「空屋さん、例のバグ、もう修正済みですか?」


後輩のエンジニアが恐縮した様子で声をかけてくる。空屋は視線をモニターに向けたまま、迷いなくエンターキーを叩いた。


「パッチ、サーバーにアップしてあります。念のため、前後のログの整合性も確認しておきました」


「ありがとうございます……」


背後で感嘆の溜息が漏れる。「本当に、空屋さんが二人いればいいのに」


空屋は椅子を鳴らさずに立ち上がると、わずかに肩を回した。一八〇センチの長身が、洗練されたオフィスの風景に完璧に溶け込んでいる。仕事は正確で速く、感情を荒立てない。社内での評価は、彼が叩き出すコードと同じくらい整然としていた。



昼休み。


ビルの脇にある小さな広場で、空屋はベンチに腰掛けていた。紙袋から取り出したサンドイッチを片手に、スマートフォンを操作している。画面に表示されているのは賃貸情報アプリ「ROOM-NAVI」。


小さく鼻歌をしながら、すでに保存マークを付けている物件を流れるような動作でスクロールしていく。空屋は、その中で一軒の物件をタップした。


「……築五五年。木造、か」


指先が静かにスクロールする。


間取り図。

周辺環境。

玄関扉の形状。

窓の位置。


空屋は、玄関の写真を拡大したあと、下部の物件概要にある”鍵の種類”で指が止まった。


「……旧式の美和ロック。これだったら……」


まるで芸術品を鑑定するかのような目つき。空屋のその空間は、端から見ればただ熱心に新居を探している若者の姿にしか見えない。


「今日はここにするかなぁ、、、」


小さく独り言を漏らしたあと、アプリを閉じ、サンドイッチを一気に頬張った。空屋転乃助のその顔は、趣味の登山ルートを検討しているかのような、健康的で無邪気な愉悦が浮かんでいた。



定時のチャイムが鳴ると、空屋はスマートに荷物をまとめる。


「空屋さーん、今日このあと空いてます? みんなで飲みに行くんですけど」


女子社員たちが期待を込めた眼差しで彼を囲む。空屋は申し訳なさそうに、しかし断固とした笑みを浮かべた。


「すみません! 彼女が、料理を作ってるんで。冷めると怒られるんで、すぐ帰らないと」


「そっかー、残念!」女子社員は顔を見合わせて笑う。


「お先です」


空屋は軽く会釈し、先にエレベーターに乗り込んだ。


後ろにいた男性社員が肩をすくめる。


「空屋はいいよなぁ。誘われる側だもんな」


女子社員たちは近くで様子を伺っていた男性社員たちを、獲物を探すような目で見定める。


「……ま、いっか。ねぇ、」


「えっ、なに?」 突然おどおどと返事をする。


「あんたたち、予定ないでしょ? かわいそうだから、特別に誘ってやるよ」


「ちょっと、色々とおかしいぞ……!」


情けなく抗議しつつも、すぐにデレデレとした締まりのない顔になった。


「……でも、行きまーす♪ 飲みいこーぜー!」


その笑いは軽く、すぐに夕方の雑踏に溶けていった。



ジムの更衣室は静かだった。ロッカーを閉め、空屋はシャワールームへ入る。

トレーニングは一切しない。ここでは汗を流すだけで十分だった。


温水が肩を流れ、思考がほどけていく。赤坂の喧騒、同僚たちの好奇の視線、そして仕事という名の擬態。それらをすべて温水と一緒に排水溝へ流し込む。


空屋はここで一度、仕事の顔を落とす。


ジムを出ると、駅近くにある契約ロッカーへ向かった。鍵を差し込み、扉を開ける。中には、ずっしりと重い大きなボストンバッグが横たわっている。それを肩に担ぎ、地下鉄のホームへ向かう。ここから先は、誰の目にも触れない「空屋 転乃助」としての時間が始まる。



その頃、赤坂の居酒屋では――


「彼女、どんな人なんかな?」


「さぁ? でも、”料理が冷めたら怒られる”って言ってたぐらいだから、意外と尻に敷かれてるのかな」


「それは意外すぎるな」


「課長から聞いたことあるけど、同棲して長いらしいよ。でも誰も彼女見たことないって」


グラスが触れ合い、笑い声が重なる。


空屋の話題は、酒の肴としてちょうどよかった。


一方その頃、空屋は満員電車の吊り革を握り、乗り換え案内を確認していた。次の路線、そして降車駅周辺の飲食店などを楽しそうに。


車内のざわめきは、彼に触れない。



西武池袋線、秋津駅。空屋は改札を出ると、初めて降り立つ土地のように、周囲をゆっくり見回した。


「さてと……」


口角が、無意識に数ミリ上がる。それは親切な隣人が見せる微笑みではなく、獲物を前にした捕食者の、静かな歪みだった。


空屋が向かったのは駅の近くにある定食屋さん。

そこは、油と醤油の匂いが染みついた、古びた町の食堂だった。


カウンター席に腰を下ろし、「秋刀魚の塩焼き定食」と迷うことなく店員に告げる。


水の入ったコップを手に取り、一口だけ喉を湿らせた。


料理が運ばれてくるまでの時間、空屋は店内を見回さない。ただ正面の壁を見つめ、静かに呼吸を整えていた。


やがて皿が置かれる。


湯気。焦げた皮の匂い。脂の焼ける音の余韻。

空屋は箸を持つ前に、目を閉じる。


そして、「いただきます」と、小さく言ったあと、箸を持った。


頭を支え、尻尾から中骨を迷いなく外す。身を崩さないよう、最小の力で剥がしていく。その手つきは、作業として完成されていた。


腹の部分を開き、内臓を取り除く。躊躇はない。不要なものを仕分けるように皿の端へ寄せる。


頭部を外し、骨に残った身を丁寧にさらう。白い身が整然と分かれ、皿の上に静かに並んだ。


頭部から一口。噛む回数は一定で、速度も変わらない。


周囲ではテレビのニュースが流れ、隣の客が味噌汁をすする音がする。誰かの笑い声が短く弾ける。空屋の意識だけが、そこから少し離れていた。


空腹を満たすためではない。身体を整えるための作業だった。ご飯の上に身を乗せ、最後にまとめて口へ運ぶ。茶碗を持つ手の動きにも、無駄がない。


味噌汁を飲み干し、箸を揃える。皿の上には、骨だけが残っていた。


空屋は一度、静かに息を吐いた。


そして、会計を済ませ、店を出たあと、スマートフォンの地図を頼りに、住宅街の奥へと歩を進める。



街灯がまばらになり、静寂が耳に痛いほど支配する区画。やがて、十五分くらい歩いたところで空屋は足を止めた。


目の前には、古い木造二階建てのアパート。表札はなく、明かりもついていない。


空屋は建物の前で立ち止まり、深く、深く息を吸った。 澱んだ空気、湿った土の匂い。そのすべてが、彼にとっては極上の香水よりも甘美だった。 周囲に人影がないことを確認する。そして、彼はゆっくりと目を閉じた。


片方の手で、ズボンの上から自身の股間を強く掴み、感触を確かめる。


瞼の裏で、今から侵入する「暗闇」を想像する。 埃が積まった床、主を失った家具、かつて誰かの生活が染み付いた壁紙。その処女地のような静謐な空間に、自分の存在という異物を滑り込ませる瞬間を思い描き、背筋に熱い痺れが走るのを味わった。


それは、どんな美しい女を抱くよりも彼を昂ぶらせる、至高の「接続」だった。


数秒後、彼が目を開けたとき、その瞳から一切の熱が消えていた。 残ったのは、精密機械のような冷徹な作業意識だけだ。



 空屋は玄関前でビジネスバッグと大きなボストンバッグを音を立てずにゆっくり置いた。すると、ビジネスバッグのファスナーを開け、中から細長い革のケースを取り出した。


黒い革に、銀色のファスナーが控えめに光る。ケースを開くと、テンションキー、ピック数本、そして薄い金属のスプーン状の道具が整然と並んでいる。


指先でドアの感触を確かめる。下隙間が広い。


「バイパスの方が早いな……」


低く呟き、ドアの前に膝をつく。姿勢を低く保ち、夜の闇に同化する。 針金をL字に曲げ、隙間へと滑り込ませた。


隙間は予想以上に広い。指二本が入るほどだ。 空屋は無表情のまま、針先を探り入れる。内側のサムターンが、闇の中でぼんやりと輪郭を浮かべるのをイメージする。 ゆっくり、確実に。呼吸を整え、針金の先をサムターンに引っ掛けた。わずかに、力を込める。


カチリ。


乾いた金属音が、夜の空気に鋭く溶けた。ドアが数センチ、音もなく開く。

空屋は一瞬も無駄にせず、その隙間に身を滑り込ませた。バッグを肩にかけ直し、音を立てないよう踵からゆっくりと着地する。


室内の空気は澱み、古い木材の匂いがした。ドアを閉め、鍵を元に戻す動作すら省略しない。指先でサムターンを軽く回し、施錠する。 これで、もし万が一誰かが来ても、この家は「施錠されていた」ことになる。



室内は、不気味なほどの静寂に満ちていた。


空屋は家の雰囲気を味わうように廊下を通り、二階の畳の部屋に荷物を置いた。ボストンバッグを開き、使い慣れた枕と簡易マットレスを取り出す。目覚まし時計をセットし、スマートフォンの電源を切る。


窓からは、照明のように明るく照らしてくれる満月。


空屋は深く息を吸った。


「素晴らしい……」


ここには、誰もいない。


その事実が、身体の奥に静かに広がっていく。


横になり、目を閉じる。呼吸がゆっくりと深くなる。



 午前六時。 目覚ましが鳴る前に、空屋の目は開いた。マットレスを畳み、髪の毛一本すら残さないよう確認して部屋を出る。秋津駅前の牛丼屋で朝定食を食べ、西武池袋線で赤坂へ戻る。


いつものコインロッカーに荷物を預けると、ジムのシャワーで「空屋転乃助」を再構築する。


九時、彼は再びフロアに立っていた。いつも通りテキパキと仕事をこなし、周囲と円滑にコミュニケーションを取る。



会議室の扉が開き、朝のミーティングを終えた久比留間くびるま とおるがフロアへ戻ってきた。空屋と笑顔で言葉を交わす女子社員たち。


「あっ…おはようございます、久比留間課長」


「おう、おはよう……」


無表情で久比留間は自分の席に着きながら、あの完璧な背中をじっと盗み見た。


無駄のない動き。周囲の空気に溶け込むような自然さ。


無意識に眉を寄せた。それは久比留間の胸の内で、じわりと鎌首をもたげ始める、嫉妬に似た不気味な衝動だった。

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