第4話 聖域
丸ノ内線の車内は、帰宅客で混み始めていた。
久比留間は、一定の距離を保ちながら、連結部の近くに立ち、ガラス越しに一つ前の車両を見ていた。
揺れる車内。そこには吊り革に掴まらず、体だけが微妙にバランスを取っている空屋がいた。姿勢はまっすぐで、スマートフォンを見ずに、ただ窓の外を眺めている。
電車が減速する。
アナウンスが流れる。
「――次は、光が丘。終点です」
終点。
空屋は何の迷いもなく降りた。
久比留間も、人の流れに紛れてホームへ出る。
*
光が丘駅を出ると、夜の空気が少しだけ広く感じられた。
都心の密度とは違う、風が通る団地の明かり。
遠くの道路を走る車の音。住宅街の静かな匂い。
空屋は改札を抜けそのまま歩き出す。三十メートルほど後ろに久比留間が後をついていく。
駅前の広場を抜け、住宅街へ入ると街灯がまばらになり、アスファルトには自分の足音だけが不自然に響く。
(……静かだな。気をつけていかないとバレてしまう)
久比留間の心臓は、これまでにないほど激しく脈打っていた。それは恐怖というより、獲物を追い詰めたいという昂揚感だった。
久比留間はゆっくり距離を取りながら後を追う。庭木が風に揺れ、葉が擦れる音だけが聞こえていた。
空屋は、一度も振り返らない。一定の歩幅。一定の速度。
そして空屋が角を曲がり、見失わないように少し距離を詰めようと急いで角まで行き顔をのぞくと、その瞬間。そこには空屋の姿がなかった。
「……?」
久比留間は歩みを止めた。
「……消えた?」
その時、背後の闇から、体温を感じさせない低い声が響いた。
「課長」
久比留間の肩がわずかに跳ねた。
振り返ると、ボストンバッグを肩にかけ、呼吸一つ乱れていない空屋が立っていた。
責める調子でも、驚いた様子でもなく「こんなところで、何してるんですか?」と、穏やかだが、事実を確認するような口調。
久比留間は一瞬だけ言葉に詰まりながら「……偶然だな、びっくりしたよ。いまから友人の家に行くところだ……」
「そうですか。……ご友人のお宅がこの、光が丘に」
「そ、そんなお前も、こんなとこでどうしたんだ? 家はこの辺じゃないだろ?」
空屋は少し間を置き、考えるように顎をさすった。
「あれ? ”家がこの辺じゃない”って、なぜ知ってるんですか?」
墓穴を掘ってしまったと、一瞬焦る久比留間だったが、すぐにあの日の会話を思い出した。
「……いや、ちょっと耳に入ってな。ほら、遠藤と居住地の話をしてたときに『綾瀬のほうです』って言ってただろ?」
「……あぁ、確かにそんな話しましたね。でもあんな離れてて、よく聞こえてましたね」
「っあ……まぁ、遠藤も声でかいからな」
「あっ、課長。スマートフォン、それ録画モードになってません?」
空屋の言葉に、久比留間の指先が震えた。言い訳すら許さない、外科手術のような正確な指摘。
「なっ、そうか?……おかしいなぁ」
久比留間は視線を外し「それじゃ、急いでるから」と、その声には焦りがあり、足早にその場を離れる。背中に、空屋の視線を感じながら。
それは自宅のドアを閉め、鍵を二重にかけても消えることはなかった。
*
翌日の勤務。オフィスはいつも通りの「日常」というノイズに溢れていた。
久比留間の理性を、焦燥だけが残っていた。
(昨日のあれは、あいつのブラフだ。焦っているんだ。今日こそ、現場を押さえてやる)
定時のチャイムと共に、空屋はいつものように音もなく席を立った。椅子の脚が床を擦る音すら立てず、デスクの上には埃一つ残さない。その「完璧な終業」が、久比留間には犯罪へのカウントダウンに見えた。
再び始まった尾行。空屋は昨日と同じ光が丘の住宅街へ入る。
空屋がホームに降り立つ。久比留間はすぐには動かない。人混みが階段へ吸い込まれ、空屋の背中がエスカレーターの陰に消えるのを待ってから、ゆっくりと地上の空気を吸いに向かった。
地上に出ると、久比留間はジャケットを脱ぎ、リバーシブルの裏側――地味なグレーのナイロン地を表にした。さらに眼鏡を外し、事前に用意していた度なしの黒縁に変える。
「……風景に溶け込め。あいつは『異物』に敏感なだけだ」
自分に言い聞かせ、車間距離を保つように、街灯の死角から死角へと渡り歩く。空屋は一度も振り返らない。そのことが、かえって久比留間の確信を深めさせた。
すると、空屋は途中でスマートフォンを取り出した。
「……ああ、どうも」
誰かと電話をしているようだったが、通話は十秒ほどで終わった。久比留間は、聞こえない距離でその背中を追う。
同じ住宅街。同じ道。歩くこと十五分。空屋は、ある家の前で立ち止まった。
そこには売却中の看板が。
一度、空屋は周囲を見渡してから、門を越えた。
久比留間の心臓が大きく鳴る。
(やっぱりだ……)
スマートフォンを取り出してすぐに動画を回す。久比留間も周囲に誰もいないのを確認してから門を越えた。
「……よし、入った」
久比留間は確信し、動画撮影を開始して後を追った。裏口の鍵は、空屋によって物理的な痕跡を残さず解錠されていた。
(中に入れば、もう言い逃れはできない。通報して、この動画を突きつけてやる。あいつの『完璧』を、泥臭い現実で引きずり落としてやるんだ)
久比留間は、まだ「誰のものでもない空間」へと踏み込んだ、その瞬間だった。
遠くで聞こえるサイレンの音。それが徐々に近づき、赤い光があたり一面に真っ暗な住宅街を照らしていた。
久比留間は振り返ると、パトカーだった。
「動くな! 警察だ!」
リビングの窓を突き破るように、暴力的とも言えるフラッシュライトの光が注がれた。
「えっ……?」
久比留間は狼狽し、スマートフォンを掲げようとした。
「違う! 侵入者はあっちだ! 私は、部下の――」
だがその時、背後の闇から伸びてきた屈強な腕が、久比留間の腕を強引に捻り上げた。
「……っ、痛い! 何を!」
影は無言で久比留間のスマートフォンを奪い取ると、代わりに、見覚えのない別の端末をポケットにねじ込んだ。影はそのまま壁の一部になったかのように気配を消し、入れ替わるように数名の警官が踏み込んできた。
「住居侵入の現行犯だ。所持品も確認させてもらうぞ」
久比留間が「自分のもの」だと思って押収されたスマートフォン。そこには、空屋の姿などどこにもなかった。代わりにあったのは、近隣住民の執拗な盗撮写真、そして「付近の住宅の解錠コードリスト」と、犯罪グループとの生々しい報酬のやり取りが記されたチャット履歴だった。
「違う……これは俺のじゃない! 罠だ! 空屋という男を追っていたんだ!」
久比留間の叫び声は虚しく、無機質な赤色灯と静かに回っていた。
*
翌朝。
会社のオフィスではざわつきが広がっていた。
「聞いた?」
「久比留間課長、辞めたらしい」
「え?急に?」
「辞表が出てたって」
本人の筆跡を完璧に模した「辞表」
文字の傾き、筆圧の強弱、インクの掠れ。それは久比留間本人が書いたものよりも、さらに「久比留間らしい」見事な筆致だった。
空屋は自分の席で、静かにパソコンを打っていた。
事件直後のこと。
久比留間は証拠不十分で保釈されていた。しかし、保釈金が誰によって支払われたのか、警察は「代理人を通じている」としか答えない。
(誰だ……誰が、俺を助けた? それとも、泳がせているのか?)
警察署を出て、重い足取りで自宅へ向かう細い路地。
そこには、一台の黒塗りのワゴン車が、獲物を待つ獣のようにアイドリングしていた。ドアが開くと同時に、屈強な男たちが久比留間の身体を車内へと引きずり込む。
「あ……」
不意に、後方から近づいてきた男たちが、言葉を発する間もなく久比留間の両腕を固めた。
走り出したワゴン車の中、久比留間は床に押し付けられ、視界を塞がれた。
「誰の差し金だ! 空屋か? 空屋だろう!」
叫ぶ久比留間の耳元で、一人の男が低く囁いた。
「あんた、高い金で『買われた』んだよ。運転免許と現場監督の資格持ち……それだけで十分価値がある。人手が極端に足りない現場があるんだ。……電波も届かず、あんたの『正義』を誰も聞くことのない場所だ」
久比留間の顔から血の気が引いた。そこには空屋の姿はなかった。だが、この徹底して無機質な手際、自分のステータスを「資産」として計算し、不要な「ノイズ」を処理する論理性。久比留間は、何も言えなかった。
「さようなら、久比留間さん。あなたの居場所は、この社会というシステムの中には、もうどこにも存在しません」
男の言葉は、まるで空屋が乗り移ったかのような冷徹さだった。ワゴン車の加速と共に、久比留間の絶叫はディーゼルエンジンの重低音にかき消された。




