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第158話 エピローグ⑦ 映画一本分の借り

 日が暮れ切ったころ。

 鷹津家の道場は、相変わらず“実戦”の匂いがした。


 ゴムマットの床。壁際のサンドバッグ。靴のまま上がれるフロア。

 畳と礼式で守られる空気じゃない。

 殴って転ばされて立つための場所だ。



 凪嵐十字軍の面々も、もう慣れていた。


 ここで煙は「勝ち方」を覚え、夏菜は「当て方」を覚え、鷹津は「掴み方」を覚えた。

 静は――説明が難しい。



 その横で、一琉が紙袋を両手で抱えている。

 中身は手作りのレモンはちみつドリンク。

 マネージャーのようだった。


「お邪魔します。……今日はお礼を言いに来ました」

「はーい、いらっしゃい」

 道場奥から現れたのは、血祓戯流師範代――鷹津昼奈だった。


 髪をまとめ、ジャージ姿なのに妙に色気がある。

 目が笑っている。笑っているんだけど、

 笑顔の奥に“殺意の棚”があるタイプだ。



 昼奈は紙袋を見るなり、ぱっと顔を明るくした。

「んふ。いらっしゃい、一琉クン。ありがと♡」


 甘い。露骨に甘い。

「いえ……皆さんにお世話になったので」


「変わんねーな」

 夏奈が頭の後ろに手をやって笑った。



 昼奈は紙袋を受け取り、中を覗いて満足そうに頷く。

「こういうのこそ、ちゃんと効くのよ。

 結構な戦争だったでしょ?」


「はい。……でも、みんな元気です」


「裏に出回ってる映像、見たわよ。

 ——アンタたちも今や伝説ねえ」



 昼奈が軽く指を鳴らす。

 その後、静以外の三人を順番に見た。


「あれだけの規模から生きて帰ってるってんなら、さ。

 ……ま、ちっとはマシになったんじゃないの」



 夏菜が肩をすくめる。

「“ちっと”ねぇ。上からだな、姉ちゃん」


 鷹津沙夜は呆れ顔でため息をつく。

「褒めてるんじゃないの。たぶん」

 煙はその“たぶん”の曖昧さに、少しだけ笑った。



 道場の隅で、もう一人の姉――朝霞が腕を組んで立っていた。

 目線が鋭い。だけど、煙を見るとほんの少しだけ柔らかくなる。


「……いい動きだったぞ」

「……あ、ざす」


 煙は照れ隠しで目を逸らした。褒められると未だに居心地が悪い。

 それで十分だ、と朝霞は頷いた。



 そして昼奈が、ようやく“本題”に顔を向ける。


 守屋静。

 昼奈の眉が、すっと上がった。


「……で。アンタよアンタ」

 静は表情を変えない。

「……」


「詠春拳のやり方なんて教えてないよな?

 映画一本渡しただけだよな??

 なんであんだけモノにしてんの??」



 静は一拍置いて、事実だけを返す。

「……世話になった」


「世話してねえんだよなあ……」

 昼奈は肩を回しながら、道場の中央へ歩く。


「まあ、軽く見てやるから構えな。

 今日卒業式だけど――

 どうせアンタに送別タイマンするような相手なんか、いないでしょ」



 夏菜がニヤッとする。

「ははは。静、言われてんぞ」


 沙夜が肩をすくめた。

「でも、どう戦うかは気になるわね」



 静は反応しない。ただ、一琉の方を一瞬だけ見る。

 一琉は小さく頷いて、距離を取った。

「……お願い。怪我しない程度で」


「実はそれが、いちばん難しいんだけどね」

 昼奈は笑って、靴のつま先でマットを鳴らした。


「ルール。グローブ無し。寝技はあり。

 ただし、関節を“折る”のは無し。

 落とすのは――落ちた方が悪い。いい?」


 静が、短く頷く。

「……了解」



 二人が向かい合う。距離は腕一本半。


「じゃ、“軽く”ね」

 そして――足が変わった。


 昼奈の重心が、ふっと沈む。膝が柔らかく曲がる。

 上体は揺れない。踏み込みは“直線”じゃない。

 斜めに、円を描いて寄ってくる。


「……それ、シラット」

 沙夜が小さく呟く。


 昼奈が、ダーティシラットを解禁した瞬間だった。


「靴履き、マット、至近距離。

 ――これが一番、楽しいんだよ」



「止めるぞ?」

 朝霞が一応言う。


「わかってるよ。壊す気はない」

 昼奈はそう言って、いきなり踏み込んだ。



 まず右足が外へ滑る。次に左足が、静の前足の外側へ入る。

 距離を潰しながら、右の掌が伸びる――

 狙いは喉ではなく、顎。

 顎を上げさせて視界を崩すための一手。


 静は、後ろへ退かない。


 前足を半歩だけ引き、顎を引く。

 同時に左手で昼奈の掌を外へ流す。詠春拳の“受け”だ。

 受けるのではなく、道を変える。



 昼奈の掌が逸れた瞬間、静の右拳が真っすぐ伸びる。

 縦拳のストレートリード。ジークンドーの最短、最速。


 昼奈は当たる前に、身体を“折る”。

 腰を落として拳の下へ潜り、静の肘を外から叩く。

 叩くというより、骨をずらす角度で触れる。


 静の拳がわずかにブレた。

 昼奈はそこへ、左の肘を入れる――

 短い。腹ではない、肋の境目。

 息が一瞬止まる場所。



「っ……!」

 と声を出したのは、見ていた夏菜だった。静は声を出さない。


 静は肋への衝撃を“飲み込んで”、足を踏み替える。

 ペンデュラムステップ。前後に揺れる振り子みたいな動きで、距離を消す。



 次の瞬間、静の左手が伸びる。指が開く。

 狙いは目――ではない。昼奈の眉間の少し上。

 視線を“そらさせる”ための偽の刺し。


 昼奈が反射で目を細めた刹那、静の右肘が跳ね上がる。顎の下へ。

 昼奈は首を引いて避ける。


 避けながら、静の脇腹へ膝を滑り込ませる。

 膝で殴るのではなく、体幹を崩すために当てる。



 静の上体がわずかに揺れた。

 ――その揺れを、静は利用する。


 揺れたまま前へ。

 昼奈の胸元へ肩で入り、左の掌底で押す。

 押すというより、中心線を奪う。



 昼奈が一歩下がる。


「……へぇ」

 昼奈が笑った。

「軽くって言ったけど…ね?」



 静は答えない。代わりに、次の一手を出す。

 右の前蹴り。膝を高く上げず、最短で腹へ――

 と思わせて、寸前で引く。


 フェイント。蹴りの“引き戻し”が速いほど、次が来る。

 引いた足で床を踏み、静は左の縦拳を入れる。


 昼奈は右腕で受ける。受けた瞬間、指輪の硬い感触――ではない。

 今日は武器は使っていない。なのに、受けが痛い。骨で受けている。


 昼奈はそのまま、静の手首を掴みに来た。

 即反対の肘で、肘を折る流れ。

 シラットの基本にして、危険な連携。



 静は掴まれる前に、自分から掌を返す。

 手首を“差し出す”角度を変え、掴みを空振りさせる。

 そして空いた距離に、短い右拳。


 昼奈は首を横にずらして避ける。

 避けながら――足を掛ける。静の前足に、昼奈の足首が絡む。

 転ばせるというより、踏ん張りを奪う。


 静の身体が一瞬、浮いた。



「――っ!」

 一琉が息を飲む。


 だが静は、落ちない。


 浮いた瞬間に、後ろ足で踏む。

 踏んだ足で床を叩き、重心を落とし直す。

 着地ではなく“定着”。

 そのまま昼奈の肩へ掌底。


 昼奈が半歩、下がった。


 下がったのに、すぐ前へ戻る。

 ダーティシラットの“粘り”だ。



 二人の距離が、またゼロになる。


 拳、肘、掌、膝、足。

 どれも大きく振らない。全部が短い。全部が痛い。

 全部が「これ以上行けば、取り返しがつかない」ラインを、ギリギリで踏まない。



 次の瞬間、二人の動きが同時に止まった。


 昼奈の右手は、静の目の前にあった。

 指先が眼球まであと数センチ。


 静の左肘は、昼奈の喉元まであと数センチ。

 どっちが先でも、もう“軽く”じゃ済まない距離。



 道場の空気が、凍る。


 朝霞が一歩前へ出た。

「――そこまで」


 昼奈は、指を引いた。

 静も肘を引いた。

 二人とも、呼吸だけが少し荒い。



 昼奈が鼻で笑う。

「……世話してねえとか言ったけどさ。

 アンタ、勝手に育ちすぎ」


 静はいつも通りの顔で、頭を下げた。

「……感謝してる」


「はいはい。せいぜいこれからも精進するのね」

 昼奈が手をひらひら振ると、夏菜が肩を竦めて笑った。



 道場の端で見ていた煙が、ぽつりと言った。

「……やっぱおかしいな、こいつ」


 沙夜が頷く。

「うん。おかしい」


 夏菜はニヤリと笑った。

「でも、そういうのがいねぇと、あの舞台は止められなかった」



 静は何も言わない。ただ、一琉の方へ戻る。

 一琉が差し入れの袋を抱え直して、少し困ったように言った。


「えっと……お礼、伝わりました?」

 昼奈が、一琉にだけ満面の笑みを向ける。

「うん♡ 最高に伝わった♡」


 沙夜が天を仰いだ。

 道場の空気は、いつものように騒がしく、いつものように温かい。



 あの年越しの戦いを支えた技は、確かにここで鍛えられた。

 そして、静の“送別”は――いつも通り、静のまま終わった。


 守るべき人がいる限り、彼女はそれでよかった。

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