第157話 エピローグ⑥ 蛇喰峠、夕焼けの最速決戦
夕方の蛇喰峠は、街と違って“音”が主役になる。
風の音。木の葉の擦れる音。遠くの鳥の声。
狂輪会が消えた峠は、拍子抜けするほど“普通の道”だった。
車通りもない。街灯はまだ点かない。
――そして、二台のエンジンが点火した瞬間、ぜんぶがかき消える。
煌莉と夏奈が同時にキックを踏み下ろした。
バンッ、と乾いた爆ぜる音。
次いで、パァァン、パァン、と軽快なアイドリングが跳ねる。
二スト特有の、軽くて、鋭くて、どこか荒っぽい呼吸。
「復活したやろ? うちのRZ」
煌莉は、RZのタンクを軽く叩いた。
かつて潰れたはずの心臓が、また規則正しく鼓動している。
「ああ。いい音だな」
近江夏菜が、ガンマのハンドルに両手を置く。
グローブ越しに伝わる振動が、妙に落ち着く。
勝負の日はいつも、こうだ。
「蛇喰峠、えらい寂しなったなぁ」
「狂輪会が消えりゃ、当たり前だろ」
夏菜は肩を回す。
少し前までこの場所は“走りたい奴”と“潰したい奴”の匂いで満ちてた。
今は、桜の季節の夕暮れ、冷えてきた空気だけが残っている。
「工業科、行くんだっけ」
夏菜が言う。
「せや。鉄騎隊メンバーごと、整備の正式ルートや。
……路上で拾った技術で終わらす気は、ない」
煌莉の声は軽い。関西弁のノリのまま、でも芯が硬い。
「それじゃ…始めようぜ」
夏菜がにやりと笑った。
「最後に――路上のルールで」
煌莉も歯を見せる。
「はん。望むところや!」
道路脇に、見届け人たちが並んでいる。
暴動鉄騎隊の面々はジャケットの襟を立て、工具袋を肩にぶら下げたまま。
凪嵐十字軍は少し離れて、いつもの距離感で固まっていた。
少し離れた場所に、原付が一台。
鷹津沙夜が、ガードレールにもたれて腕を組んでいた。
後ろには梨々花もいる。
「一般車、気配すらないわよ。安全確保」
沙夜が短く告げる。
手には交通整理用の蛍光棒――というか、
そこらで拾ってきた反射材テープ付きの棒。
「ありがとよ、業鷹!」
煌莉が軽く手を振った。
梨々花がスマホを掲げて言う。
「今さら撮らないわよ? これは“送別”なんだから。
……見届けるだけ」
「廃変電所跡から入って、ループ一周。戻ってここでゴールや」
煌莉は指で峠の先を示す。
あの廃変電所は、狂輪会と決着をつけた場所だ。
――でも、今日は“喧嘩”じゃない。
“速さ”だけだ。
「……手加減しねぇぜ!」
「はん、ぶっちぎらせてもらうで!」
夏菜が言い、 煌莉が即答する。
夏菜がガンマのスロットルを煽った。
乾いた音が山に跳ね返る。
煌莉も合わせて煽る。
二台の二ストが同じ高さで吠え、同じ高さで黙った。
合図はない。
数える声も、旗も、笛も。
この二人のレースに、そんな丁寧さは要らない。
目が合った瞬間が、スタートだ。
夏菜の左足が地面を蹴る。
車体が半拍遅れて前へ滑る。
後輪が一瞬だけ空転し、路面を掴んだ。
煌莉のRZも同じ。車体が前に跳ぶ。
二台は同時に、夕方の峠へ飛び出した。
蛇喰峠の入口を抜けると、最初の左コーナーが来る。
夏菜はアクセルを開けたまま、体を外側に落とす。
膝を開き、車体だけを寝かせる。
アクセルを残し、ラインを繋ぐ。
煌莉は、少し遅れてブレーキ。
代わりに寝かせ方が深い。
イン側をえぐるように入ってきた。
「っ……!」
夏菜の視界に、RZのテールが刺さる。
二ストの排気が鼻をつく。
オイルの匂い。
「ハハッ――!」
夏菜は笑う。焦りじゃない。楽しい。
「笑うなや!」
煌莉も笑って返す。
二台の排気音が、笑い声みたいに重なった。
二つ目のヘアピン。
夏菜はブレーキを早めに入れて、外側へ膨らませる。
旋回半径を大きく取り、出口で加速する作戦。
煌莉はインに突っ込む。
リスクを取ってでも、短い距離で前に出る。
タイヤが鳴る。サスが沈む。
二台のバイクが、同じコーナーを別の理屈で喰っていく。
廃変電所が見えた。
速度が一瞬遅く感じる。
錆びた鉄骨。割れたコンクリ。
——あの夜の匂いが、まだ残っている気がした。
二人はその空気を突き破り、また開けた。
次のヘアピン。
夏菜はブレーキを遅らせ、ぎりぎりまで突っ込む。
タイヤが鳴く。
車体が外へ流れそうになる。
その流れを、夏菜は腕では止めない。
腰を入れて、足で押さえる。車体が戻る。
出口でアクセルを開ける。
煌莉はその一瞬の“鳴き”を見逃さない。
内側へ入る。ブレーキを短く。
車体を寝かせる。膝は擦らない。
擦る必要がない角度で、速く抜ける。
並んだ。
二台が、ほとんど同じ場所にいる。
「やるじゃねえか!」
夏菜が叫ぶ。排気音に消えて半分しか聞こえない。
「今さら言うな!」
煌莉が返す。声が山に跳ねる。
変電所を過ぎると、下りの連続コーナー。
夏菜はラインを大きく取る。
視界を広く。早めに進入し、早めに立ち上げて加速。
煌莉は逆。ギリギリまで奥に入る。
出口の一点に車体を向ける。そこにだけ速度を残す。
下りで車体が軽く跳ねる。
路面の凹凸が手に来る。腕が痺れる。
でも、二人はブレない。
ぶれたら――終わる。
下りの最後、短い直線。
ゴールの手前で、二台は完全に並んだ。
「――っ!」
そして、峠の出口が見えた。
ゴールなんて印はない。
ただ、最初に並んだ場所まで戻れば、それで終わりだ。
ハンドルとハンドルが、指一本分の距離。
鷹津の姿が見える。
棒を振ってる。
メイが阿修羅號の荷台で跳ねてる。
——夕焼けの中、二台の二ストが同時に通過した。
夏菜は、アクセルを戻し、ブレーキをかける。
煌莉も同じ。二人は少し先で停まり、バイクを降りた。
路肩で待っていた沙夜が、片眉を上げる。
「……どっちが勝った?」
夏菜と煌莉は、同時に顔を向けた。
そして、同時に肩をすくめた。
「さあな」
「知らん」
梨々花が呆れた顔をする。
「それでいいの?」
煌莉が髪をぐしゃっと直した。
「それがええねん」
峠の下――少し離れた場所に、阿修羅號が停まっている。
軽トラのくせに、存在感だけはバイクよりデカい。
ハヤブサエンジンを積んだ化け物。
荷台には工具箱と、鉄騎隊の“未来”が詰まっている。
メイが運転席から顔を出し、親指を立てた。
煌莉も親指を返す。
夏菜が小さく笑って言った。
「……阿修羅號も連れてけよ。お前の“相棒”だろ」
「当たり前や。アレは鉄騎隊の魂やからな」
一琉は少しだけ目を細めた。
夕方の峠――走り切った背中の温度。
煌莉は胸を張った。
凪嵐十字軍の方を向いて、叫ぶ。
「これが暴動鉄騎隊の別れの挨拶や!」
鉄騎隊が一斉に声を上げる。まとまりのない歓声。
でも、それが暴動鉄騎隊の“まとまり”だった。
夏菜は笑って、拳を軽く突き出した。
煌莉も拳を出す。
――コツ、と小さな音。
二人は笑って、バイクに跨った。
エンジンをかける。
二台の二ストが吠え、夕方の蛇喰峠には送別の煙が昇った。




