第13話 午後五時のメロンパン
午後四時半。
放課後の空はまだ明るく、街路樹の影がアスファルトの上に淡く伸びていた。
制服のままの天凪一琉は、パン屋「カノン」の裏口を軽くノックしてからドアを開けた。
甘い小麦とバターの匂いがふわりと迎えた。
「おつかれさまでーす」
「あっ、一琉くん来た!」
カウンターの奥から、店主の娘が笑顔で手を振る。
二十代前半、明るいエプロン姿がよく似合う。
「今日はね、メロンパンがやたら出てるよ。並べてくれる?」
「了解です。包みは二重にしておきましょうか?」
「わ、気が利く~! もうベテラン接客だねぇ」
一琉は照れたように笑い、慣れた手つきでエプロンを巻く。
髪を後ろで束ね、袖をまくると、すっかり“店の顔”の表情になる。
バックヤードの棚からトレーを抱え、値札の札束、タイマーを確認してから売り場へ向かう。
店内に広がる、バターと砂糖の香り。
ディスプレイ棚に黄金色のメロンパンが並ぶ。
表面の網目がぱりっと割れて、湯気がまだ息をしている。
軽く口角を上げながら、一琉は自然体で客と会話を交わす。
「この時間、近くの中学の子たちが多いんですよね」
「うん、一琉くんが来てから明らかに増えたよ。なんかこう……華があるからさ」
「それで売上が伸びるなら、お安い御用です」
笑いながら答える声には、柔らかい響きがあった。
表情も、動作も、まるで何年も接客をしてきたような落ち着きがある。
しかし、彼のまわりには、いつも“目に見えない誰かの気配”があった。
◇
午後五時を少し過ぎたころ。
ドアのベルが、ちりん、と控えめに鳴る。
入ってきたのは、一人の少女。
制服の上にパーカーを羽織り、ポニーテールが少し乱れている。
抜き身の刀のような鋭い気配。
守屋静――学校では“音無し”と呼ばれる二年生。
だが今の彼女は、ただの一人の客を装っていた。
店内のざわつきが、ほんの一瞬だけ止まる。
(……あっ、あの人。また来てる)
常連の女子たちがチラリと視線を見やる。
静は一言も発さず、トレーとトングを手に取った。
クロワッサン。
ミルクフランス。
チーズパン。
棚を何度も往復しながら、迷うようにパンを乗せていく。
――そして、視線が合った。
「あ、いつもありがとうございます。
焼きたてのメロンパンも追加で並べますね」
静の肩がびくりと震えた。
カウンター越しの声。
いつもの、柔らかな笑顔。
「……ぅ、ぅん」
蚊の鳴くような返事。
顔をそむけ、さらにパンを追加する。
トレーの上には、すでにパンが六つ。
一琉は少し首を傾げる。
(そんなに食べられるのかな……いや、家族に、かな)
けれど、彼は何も聞かない。
ただレジに立ち、淡々と袋詰めをしていく。
受け取る瞬間、静の手が袋をぎゅっと握った。
その微かな力に、一琉は気づいていた。
◇
静が出ていったあと、店の空気がまたざわめきを取り戻す。
カウンターに残った女子高生の客たちが、ひそひそと話し出した。
「ねぇ……あの人、また来てたよね。めっちゃ強そう」
「でもパンめっちゃ買ってた。ギャップ……」
一琉は苦笑しながら、手を止めずに紙袋を整える。
レジ横のレシートがかさりと揺れた。
◇
閉店後。
照明が少し落とされ、パン棚の残りを片づけながら、
店主の娘がぽつりと言う。
「最近来てるあの子さ、無口だけど……なんか緊張してるよね」
「……あの人、パンが好きなんですよ。きっと」
一琉はそれだけを言って、モップを手に取った。
声の調子は淡々としているのに、その背中にはどこか“分かっている”静かな優しさがあった。




