第14話 ……パンを買うだけ、のはずだった
午後五時すぎ。
商店街の端、古びたパン屋の前で、守屋静は立ち止まっていた。
(……護るのに、現地の情報は必須だから。冷静に、冷静に)
風に乗って、チーズの焦げた香りが漂う。
鼻先をくすぐるたびに、胸の奥がざわめいた。
(パンを買うだけ……パンを買うだけ……)
そう唱えていないと、足が前に進まなかった。
いつもの屋根の上では平気なのに、この小さなドアの前では呼吸が浅くなる。
心臓の音が喉まで響いてきて、うるさい。
(落ち着け、私。ただ買って帰るだけ)
取っ手に触れ、そっと押す。
鈴の音が、静かな店内に響いた。
——そして、目に入る。
レジ横に、彼がいる。
天凪一琉。
柔らかな笑顔。
プラチナブロンドの髪は、
天の光をそのまま糸にしたようだ。
少し寝癖が残っているのに、なぜか整って見えるのが、悔しい。
(こっち見ないで……お願いだから、こっち……)
視線が合った。
「あ、いつもありがとうございます。
焼きたてのメロンパンも追加で並べますね」
「……ぅ、ぅん」
言えた。
声も出た。
震えてない——たぶん。
けれど、トングが手から滑りそうになって、慌てて握り直した。
トレーの上にパンが五つ、六つ。
自分でも気づかぬうちに、乗せすぎていた。
(何個買ってるの!? 絶対怪しいって!)
心の中の警報が鳴りっぱなし。
なのに、手が止まらない。
(……この人の前だと、呼吸が、変になる)
レジで袋を受け取る。
その瞬間、一琉がまた笑う。
指先に熱がこもる。たぶん、顔も真っ赤。鏡があれば全力で確認したい。
レジで袋を受け取ると、一琉がまた微笑んだ。
その笑顔は、どこまでもやさしくて、あたたかくて——
だからこそ、ほんの少しだけ、ずるいと思った。
◇
夜。
部屋の灯りの下、紙袋の中からパンを取り出す。
中身を一つずつ出し、並べる。
指で包み紙のしわを伸ばし、整列させる。
クロワッサン、チーズパン、ミルクフランスに…メロンパン。
並べただけで、胸の奥がまた温かくなる。
(これは……一琉くんが並べたやつ)
(これは、焼きたてって言ってたやつ)
(これは——たぶん、私の顔、見てた時の)
指先で表面をなぞる。
少しだけバターが溶けて、香りが広がる。
食べるのがもったいないと思いながら、ひと口だけ齧る。
甘い。
でも、それだけじゃない。
胸の奥が、どうしようもなくくすぐったい。
(……パンを買うだけ、のはずだったのに)
目を閉じれば、店内の鈴の音がよみがえる。
そして、彼の声。
——『焼きたてのメロンパンも追加で並べますね』
心臓の鼓動が、また喉まで届く。
静は顔を手で覆い、天井を見上げた。
「……ほんと、ずるい」
その呟きは、誰にも届かない。
けれど、夜風がカーテンを揺らし、
まるで“また明日”と約束するように、優しく頬を撫でていった。




