野営戦 ―氷檻―
氷の嵐が森を裂いて吹き荒れ、振るわれた氷柱の槍が目の先を突き刺す。
「……っ」
かすかに息を吐きながら、白兎は身体をひねった。足裏が霜の地を蹴り、耳が風に翻る。地を滑るようにして突進したその身が、次の瞬間には豹へと変じて跳ね上がった。氷を縫うように宙を駆ける。その残像に惑わされたか、次の氷刃はわずかに空を切った。
ヘルガーの眉がわずかに寄る。だが次の瞬間には、自身の足元から噴き上がるように氷壁を展開して迎撃する。フーリェンはそれを予測していたかのように跳び上がり、氷壁の縁に爪を引っかけて方向を変える。再び姿を兎に戻し、小さな身体を縫うようにして駆け抜ける。
その動きはあまりにも変則的だった、猫科の俊敏さと兎の柔軟さとを自在に切り替え、氷の範囲制圧を無力化していた。ヘルガーの胸に、確信がひとつ芽生え始めていた。
変化能力――。しかも、ここまで複雑な動きの切り替え。完全に訓練されている。目の前にいる獣人の“変化”は、単なる生態のそれではない。敵の攻撃範囲、展開、空間の圧力までもを読んで変わる、まさに戦闘のための変化。
「シュナ、右斜面から敵接近。視界を切れ」
「了解!」
遠方の味方へ向けて短く飛ばした指示に即応し、霧を操る能力持ちの獣人が動く。
「ユエ、前線で抑えろ。十秒で回れ」
「はい!」
冷気の嵐の中、ひときわ鮮やかに立つ白い影。その中心で誰よりも静かに戦況を掌握し、誰よりも鋭く戦場を切り開いている。
――そんなフーリェンの背後、別の氷槍が横合いから迫った。だがそれに反応したのは、別の隊員だった。
「任せな、隊長!」
鋭い爪と地を蹴る脚力をもった山猫の獣人が飛び出し、バルドの攻撃軌道に割って入る。氷槍を爪で弾き飛ばし、逆に間合いを詰めてバルドと一騎打ちに入った。
「なっ……」
バルドの目が見開く。自身の氷を、力で真正面から打ち破る者が出てくるとは予想していなかったのだろう。
「隊長は忙しいんだ。こっちは俺らで抑えてやるよ!」
叫びと共に、二人目の隊員が合流し、バルドを引き離しにかかる。陽動部隊の連携は緻密で、仲間同士が互いの動きを熟知している。指揮官不在でも、合図ひとつで正確な役割をこなしてみせる。
ヘルガーは、無意識に奥歯を噛んだ。陽動とは本来、囮であり、時間稼ぎであるべき存在。しかし、目の前の部隊は明らかに“精鋭”だった。
目の前の兎の姿はすでにまた豹へと変じ、次の瞬間には狐の尾が揺れていた。視界の中で、目まぐるしく変わる“敵指揮官”の姿。戦場に吹く風が変わった。氷と雪の静けさに、獣たちの咆哮と、灯された炎が交錯する。
雪豹の目が真っ直ぐにヘルガーを捉え、瞬きする間に次の姿へと変化する。今度は、白狐――氷を焼くような眼差しを湛えた、真の姿。
その姿を捉えた瞬間、ヘルガーの背から凍気が立ち上る。それは怒りでも驚きでもない。ただ、敵将として認めたという証。ならば情けは無用、勝つべき相手としてのみ刃を向ける。
「――構うな。あの白い獣を落とせ。奴が“芯”だ」
その一言で、氷の軍勢が一斉に動く。ヘルガー率いる氷結部隊は、アスラン軍中でも精鋭中の精鋭。対するフーリェン隊は、彼の冷静な指示のもと、一糸乱れぬ布陣を保ち続けていた。
「前方、左の斜面を削れ。楔を打ち込ませるな」
「距離を取れ、接触すれば凍る」
「射線確保、霧の範囲を制限して構わん。追跡遮断を最優先」
短く、的確な指示が飛ぶたびに、隊はまるで生き物のように姿を変える。能力持ちも非能力者も、その機動と連携は完璧に近かった。さらに、後方ではアドルフが指揮を執り、偵察隊ながらその柔軟な思考力で合流部隊の展開を支える。
「接近戦を避け、側面圧をかけろ」
「……敵の狙いは明白。こちらの印持ち、二名を優先して包囲してくる」
その言葉通り、戦況は一進一退。地形に合わせて動くフェルディナ軍の柔軟な対応が功を奏し、戦局はしばしの間、膠着を保っていた。
だが、相手はヘルガーと、その弟子――バルドがいる部隊。
「終わらせるぞ」
ヘルガーの声が、森を震わせた。その背後、バルドが低く吠える。
「合図通りに。時間差で潰す」
「了解した」
次の瞬間、空気が変わった。
深い呼吸のように、氷の波動が戦場を包み込む。草が凍り、木々が軋む。森そのものが氷の呼吸を始めたような、圧倒的な冷気。ヘルガーの纏う空気が一段と低くなったことにいち早く気が付いたフーリェンが、すかさず後方の仲間たちへ声をかけようとする。
「………全員! 左の密林――!」
だが、それすらも間に合わなかった。
狼と犬。二人の犬科の獣人の掌から解き放たれた冷気が、まるで風と波のように襲いかかる。
「伏せろ!範囲攻撃だ!」
アドルフが叫ぶも、その声すら凍てつくほどの圧力。地が軋み、音を立てることさえ奪われていく。
まずヘルガーの冷気が、フーリェンの正面から吹き荒れた。遅れてバルドの放った氷刃が後方と側面から包囲するように展開。それは狙い澄ました、完全な挟撃。逃げ場はどこにもなかった。
「――っ……!」
フーリェンは瞬時に切り替えた兎の足で跳躍しようとした。しかしヘルガーはそれすらも許さず、足元から湧き上がった霜が一気に膝までを覆う。隣の猫獣人が咄嗟に援護に入ろうとした瞬間、肩までを凍てつく結晶に包まれ、動きを止めた。
「フーリェン!」
アドルフの叫びすらも、霧氷の中にかき消されていく。
瞬く間に、広域に展開された氷が、すべてを沈黙させる。木々は凍り、地面は白く、吐く息さえ空に昇らない。最前線にいたフーリェンを含め、部隊全体が、瞬く間に凍り付いた。
戦場のが、時を止めたかのように静まり返った。動ける者は誰もいない。そこにいるすべてが、氷の檻に封じられた。
ただ、凍結の中心――わずかに残る意識の中で、フーリェンは歯を噛みしめた。
(まだ……だ)
だが、白銀の海は、すでに獲物を飲み込んでいた。
氷の大国アスランの軍勢が、ついに牙を突き立てたのだった――。




