野営戦 ―氷狼と氷狼―
氷の刃が交わる度、空気はますます冷たさを増していく。
「やっぱり、そう簡単にはいかないか……」
シュアンランは大剣を構え直しながら息を整えた。足元には霜の棘が迫り、月明かりに照らされた細やかな氷の粒が皮膚を刺すように吹き付けてくる。目の前で白い息を吐くのは、大国アスラン軍の大将。その力はやはり、次元が違う。
堂々と構えるヘルガーは、その黄金の双眸で静かにこちらを見据えていた。五年前の合同訓練——あの時、彼に敗北した記憶がじわりと脳裏に滲む。
だが、同じ轍は踏まない。
背後ではアドルフが指揮を執り、隊員たちに命令を飛ばし続けている。あの男がいる限り、隊は崩れない。シュアンランはヒューマンの副隊長へと全てを預けるようにちらとその後ろ姿を見やり、短く叫んだ。
「アドルフ、後ろは任せるからな!」
その一言に、アドルフの肩が僅かに動く。彼は瞬時にシュアンランの言わんとすることを察すると、振り返らずに駆けだした。
「全員後退! 後衛、傷者を抱えて森の陰へ! 急げ!」
驚いたように目を見開いた者もいたが、隊員たちは即座に従った。蜘蛛の子を散らすように駆けていく彼らの行動にアスランの兵士たちは眉を寄せながらも、その背を追うことはしなかった。
戦場に残されたのは、大剣を肩に担いだ一匹の狼。いくら名のある武人といえども戦力差は歴然。そう言いたげなアスラン軍の兵士たちの反応に、シュアンランは微笑を浮かべる。
「随分と仲間思いだな」
皮肉るように囁いたヘルガーへと無言で剣先を向けると、シュアンランは両の足に力を込めた。
「決着を付けよう」
次の瞬間、地面が爆ぜた。
シュアンランが放ったのは、大剣に纏わりついた圧縮された冷気の塊だった。斬撃と共に解放されたその力は、前方一帯を白い閃光の波と変え、すべてを呑み込む勢いで疾走する。地を裂き、木々を砕き、氷と氷が空中で衝突したその刹那、戦場が揺れた。
ヘルガーは眉一つ動かさず即応する。足元を中心に幾重にも重ねた氷の防壁を展開し、巨大な氷柱を盾にして耐える。爆音のような衝突音と共に、凄まじい暴風が周囲を襲った。肺をも凍てつかせるほどの寒波。白銀と蒼銀の氷が激しく火花を散らす。
「これがお前の全力か?」
仲間の気配が消えたのを合図に放った、一撃。それでもなおアスラン王国の大将は口角を上げて立っている。だがその目の奥は決して笑ってなどいなかった。
深く息を吸って、体の内側へと冷気を回す。獲物を握る右手へと意識を集中させ、大剣の表面へと薄膜を張っていく。
体は絶好調。体温を下げるのに時間がかかってしまったが、仲間たちのお陰で準備は整った。
じわりと青を滲ませ始める空の下、シュアンランは勢いよく白銀に輝く大剣を振り上げると、正面に立つ狼男を、そしてその背後に並ぶアスラン兵たちを見据えた。
「次で終わらせる……!」
刃は長く、幅も広い。鍔のないその武骨な姿は、まさに彼の力そのものを体現していた。
「その大剣で薙ぎ払う気か?」
「正解だ。だけど、お前はもっと下がるべきだったな」
フェルディナの氷狼。武勲を上げる中でいつのまにかついた自身の称号。父親からアスランにも同じ名をもつ男がいると聞かさせた時の胸の高鳴り。為す術もなく敗北したあの日。氷狼の名に恥じぬ男になるために。自身を選んでくれた主人の期待に応えるために。一人でも多くを救うために。なによりも、生きて帰るために。
氷操作の能力など、珍しいものではない。狼種となれば、尚のこと。だからこそ、鍛錬を続けた。頭一つ飛び抜けて、存在を知らしめるためには己が力を磨き続けるしかないのだから。
「ッ……!」
シュアンランは地を蹴った。膝下には霜が纏わりつき、一歩踏みしめる度に土を凍てつかせていく。そのまま全身を捻るようにして横一文字に振り払われた大剣の軌跡が、周囲の空気ごと切り裂いた。
ヘルガーは咄嗟に地面を穿ち、茨状の氷を突き上げた。しかしそれらは瞬く間に斬撃と共に襲い掛かる冷風によって砕け散る。彼の氷が、防壁を展開しようとしたアスラン兵たちの氷が、瞬く間に蒼白の波に覆われていく。
「全て凍らせるつもりかっ」
ヘルガーの額に一筋汗が滲む。自らが作り出す氷の茨も柱も、シュアンランの前では為す術なく崩れてゆく。しかし彼もまた一流の氷使い。冷静に状況を見極める目を捨ててはいない。
「ずいぶんと、腕を上げたな! シュアンラン!」
ヘルガーの声に、シュアンランは微かに微笑んだ。
「五年前とは違う。言っただろ? 今回は——勝ちに来た」
言葉と同時に、凍てつく風すらも引き裂くように蒼銀の剣閃が走った。シュアンランの全身から放たれた、すべてを込めた渾身の一撃。その刃がまさにヘルガーの胸元へ届こうとした――その時だった。
「「……ッ!」」
甲高い飛翔音と共に、一筋の光が朝を迎えようとする群青の空を駆けていった。後方から放たれたであろうその狼煙の尾を追うように、場にいた全員の動きが止まる。
氷刃の先には息を呑んだヘルガーの姿がある。その胸元まで、あと僅か。
先に剣を引いたのはシュアンランの方だった。
手首の角度を緩める。大剣に纏わせていた冷気がほどけ、刃は無数の氷粒となって空へ溶けていく。足元を覆っていた氷も同時に融け始め、張り詰めていた戦場の空気が、ゆっくりと元の静寂を取り戻していった。
「……終わり、か」
大剣を完全に空へと還し、深く息を吐くと、白く霞む視界の向こうでヘルガーが短く呟いた。驚きと納得。その奥に、ほんの僅かに感情の色を滲ませながら、彼は真っ直ぐに自身を見据えていた。
「バルドが落とされたか……。やはり本陣は堅いな。俺の見立てが甘かった」
「あのまま撃っていれば、俺の胸を裂けたか?」
その問いに、シュアンランは顔を上げた。一拍遅れて「あぁ」と答えるが、未だ周囲を蠢く氷棘を前にすると、完全勝利かと言われれば曖昧に言葉を濁すことしかできなさそうだった。
「微妙なところだな。お前も、反撃の準備をしていただろう」
「……そうだ」
そう答えれば、ヘルガーは苦笑した。
「だが間に合わん。これが戦なら、先に死んでいたのは間違いなく俺だ」
能力も、間合いも、戦い方も、全て知っている。刃を交えて以来、幾度となく互いの存在を意識してきたからこそ分かる。あの一撃の先に待っていたものが、勝敗だけではなかったことを。
「まさかここまでやられるとはな」
ヘルガーは肩を竦めると、固く結んでいた口元を緩めた。
「俺の負けだ」
「俺は勝ったとは言えないな」
「なぜだ?」
「お前が、まだ倒れていないから」
五年前なら、きっと結末は違った。主人の期待に応えるために、勝つことだけを考えて我武者羅に目の前の敵を打ち倒すことだけを考えていた、あの頃なら。けれど今は違う。仲間を守るために戦い、仲間を信じて背を託した。
そして今、目の前にいる男の喉元まで手が届いた。それは、誇ってもいいだろう。
「そうか。では、次に期待するとしよう」
次があるのかどうか。数年後か、はたまた数十年後になるのか。味方なのか、敵なのか。そんなことは、分からない。
数秒の沈黙の後、戦場に残っていた氷の気配が完全に霧散した。
ヘルガーはどこか満足げに目を細めると、後方の仲間たちへと撤退を呼びかけ、歩き出した。泥水の残る地面を踏みしめながら去っていくその背を見送っていると、最後に一度、彼は振り返った。
「お前たちの手際、見事だった。フーリェンにもそう伝えておけ」
それだけだった。
ヘルガーはくぐもった笑いを一つだけ残すと、残兵たちと共に夜の森へと消えていった。
シュアンランは誰もいなくなった森の奥をしばらく見つめていた。
あれほど遠く感じた背中。何度手を伸ばしても届かなかった男。――今は、もう違う。勝ったという実感はない。
けれど――
「……俺も、少しは近づけたかな」
誰に聞かせるでもない呟きは、明け方の冷たい風に溶けて消えた。




