野営戦 ―氷牙―
【登場人物】
バルド…アスラン王国軍副将。ヘルガーの一番弟子。
数刻前—―アスラン陣営本部にて。
「フェルディナの防衛線が一部崩れたとのことです」
伝令班の報告にヘルガーは目を細める。暗がりの中でも冷たく光るその黄金の瞳は、既に次の手を導き出していた。
「出撃の準備をしろ」
兵士たちが整列を開始する。ここに集うのは氷を扱うことに特化した精鋭部隊。一騎当千の選りすぐりが並ぶ中、彼らの中心にはもう一人の氷を統べる者がいた。
「バルド」
「はい」
呼ばれたのはアスラン軍副将バルド。大柄な犬獣人のその男は、氷の扱いにおいてはヘルガーに次ぐ実力を持つ。
「後方で待機していた分、一気に突き抜ける。お前は西側から行け。俺は中央から正面突破を狙う」
「了解」
号令がかかると同時に、地面を伝って白い霜が広がっていく。凍りつく枝、ざわめきを潜める木々。森が彼らの存在に凍りつき、色を失っていく。
「報告! 東側にて遊撃隊を翻弄していたフェルディナの陽動隊が別小隊と合流。印持ちが二名いる状態です」
「猫科の獣人たちか」
ヘルガーの眉が僅かに動く。
印持ちが二名。野営戦開始直後から第一、第二、第三軍の主要幹部の名前は戦場のあちこちから報告されている。そんな中、第四軍の白狐の隊長の動向だけが、一度たりとも上がっていない奇妙なこの状況。
「進路を変更する。バルド、先に潰すぞ」
進行ルートの調整を下す。印が本物かどうかは、問題ではない。あれだけの陽動を指揮できる者なら潰すに値する。そう判断したまでの話。
夜の帳を裂くように、氷の部隊が音もなく進み始めた。
そしてついに、視界の先に素早く動き回る猫科の獣人たちを捉える。その中央、月明かりを反射する銀白の斑点。指揮を執るひとりの雪豹が、静かに指を上げていた。
(あれが陽動隊の中心か)
一呼吸置いて、ヘルガーは片腕を軽く上げる。次の瞬間、彼の前方一帯の地面が瞬く間に凍り始める。氷の息吹が地表を走り、木々の根元をも包み込み、膝下まである草を地形ごと氷結させる。
「包囲の準備。まず足を止める」
部下たちが無言で頷き、氷の陣を左右から展開していく。
本来なら敵はここで足を奪われ、追撃を受けて壊滅するはずだった。
「全員後方十五メートル!」
風に乗って届いた声に、空を切ろうと上げた手が思わず止まる。
(今の指示の出し方、声の質、判断速度――)
思わず脳裏に過る顔。数日前訓練場の片隅で少しの間言葉を交わした第四軍の隊長。白狐の獣人で、口数は少なく控えめな性格。しかし力強い芯を持った目をしていた青年――。
「……フーリェンか?」
だが目の前にいるのは明らかに違う。白銀の毛並みに、斑点の浮かぶ猫科――どう見ても豹獣人。かの青年とは種族からして異なる。
戸惑いが一瞬掠めたが、ヘルガーはすぐにその感情を頭の奥へと押しやった。
ここは戦場。些細な迷いに足を止めるのは死に直結する。
氷は躱された。であるならば、次は確実に仕留めるだけのこと。
「バルド、右に回れ。印持ちだ。確実に潰せ」
「了解」
犬獣人の副将が静かに動き出す。氷の牙を持つ影が、銀白の風を飲み込もうと包囲を狭めていく。
周囲の温度がさらに数度下がった。
氷が地を裂き、滑るように冷気が這い進む。しかしその氷の牙が届くより早く、猫科の獣人だちは縦横無尽に駆けていく。
「三時の方向へ回り込め、氷は後から伸びる。動き続けろ!」
命令と同時に猫科の獣人たちが散る。
「やってやるさ!」
叫んだのは山猫の獣人。その背後、氷の刃が木の幹ごと吹き飛ばすように走った。
その後方から、風のように豹獣人の指揮官が姿を現した。雪を蹴り、氷を駆け、木立をなぞるようにして一直線にこちらへと突進してくる。
(……速いな)
霧氷の中を駆けるその姿は目で追うのがやっとである。
「バルド!」
呼びかけに応じ、横から進路を塞ぐようにバルド跳びかかる。氷の刃を巻き上げるように広げ、その横腹に斬撃を放つ。
しかし、雪豹は止まらなかった。バルドの斬撃を受け流すように一回転しながら背後に着地すると、そのまま飛びかかってくる。
細められた彼の瞳孔が、次の氷を生もうと手を上げたバルドの首元を見やった。
印を確認された。雪豹はバルドの一撃から身を捻って距離を取ると、すぐさま逆方向に飛び退いた。
氷の霧が再び襲いかかろうとしたその瞬間、
「――ッ!」
月明りを背に雪豹の姿が崩れる。その場にいた全員の視線が一瞬にして彼に集中した。
斑点模様の尾が消え、代わるように現れたのは大きく垂れた耳に、大きな琥珀色の目。視線が集まるそこに立っているのは、戦場には不釣り合いな華奢な白兎。
ヘルガーの目が、見開かれた。
(姿を……変えた?)
第四軍隊長の正体について確証を得ていなかった彼の中に、一つの違和感が走る。
聞き覚えのある声。聞き覚えのある指示の出し方。そして――今の変化。
訓練場の片隅で言葉を交わした白狐の青年。その能力を問うたヘルガーに対し、淡く笑みを浮かべた双子の弟。
「……なるほど面白い」
次の瞬間、ヘルガーの冷気が獣のように牙を剥いた。バルドもそれを察し、氷壁を構築しながら白兎との距離を詰めにかかる。
氷と雪と疾風と。
命を削る戦の最中に、白兎の大きな瞳は静かに燃えていた。




