偵察
草を踏む音すら吸い込むような風が、外套を揺らしていく。
生い茂る木々の間を縫うように、一人の獣人が歩みを進めていた。艶のある白髪はゆるく纏められ、しなやかな尻尾が腰に沿って揺れている。爪先まで洗練された仕草と、整えられた身なり。
細身の体躯、猫獣人の雌。それは、能力で姿を変えたフーリェンであった。
「こっちになるのは久しぶりだな……」
小さく呟くその声にも淑やかな抑揚が混じる。
姿を変えれば自然と振る舞いも変わる。獣の本能と人の理がせめぎ合う中、”彼女”は気配を殺し、木陰から村の様子を窺った。
目の前に見えるのは、南境に接する隣国の小さな集落。
通りを歩く者の多くは銅剣を帯びた男たち。一見村人のふりをしてはいるが、その視線や足の運びは明らかに訓練を受けている者のそれだった。
平時の村にしては用心が過ぎる。陽が落ちる前に村へ入るべきか、それとも夜を待つべきか。頭の隅でそのような事を考えながら木陰から一歩踏み出す。すれ違った若い男が振り返り、こちらへと視線を留める。
「珍しいな。見かけない顔だ」
猫獣人の雌――しかも他国の気配を纏う自分は、ここでは目を引くのだろう。
フーリェンは足を止めることなくにこりと微笑んだ。
「ただの踊り子よ。少し道を外れてしまったの」
作り声、甘い響き。男は「気をつけてな」とだけ言い残すとその場を去っていった。
そのまま彼女は村の奥、国旗が見えた建物の方へと足を向けた。
揺れる腰の動きは演技なのか、それとも本能か。
風が、少し湿り気を帯びて背後を通り過ぎていった。
――――
偵察に訪れて早一日。
村の広場には小さな市が立ち、干し肉や染め布、薬草が所狭しと並べられていた。"踊り子”は穏やかな歩調で露店を見て回る。
「これ、少し値が張るけど香りがいいよ。北で取れる果実の乾燥皮さ」
老婆がそう言って差し出したのは、淡い黄緑色の薬包だった。フーリェンはそれを受け取ると、ついでとばかりにそのまま問いを投げかけた。
「この村、とても静かね。旅の途中で通った他の村よりずっと」
「静かすぎて気味が悪いってかい?」
老婆はふっと目を細め、視線を左右に走らせながら声をひそめた。
「誰もが余計なことを口にしないようにしているのさ。……ここの“領主様”の耳は、どこにでもあるからね」
その言葉に、老婆を見つめるフーリェンの眼差しが僅かに鋭くなる。
「昔はもっと素朴な村だったよ。けど今じゃ、軍のやつらがひっきりなしに出入りしているし、若い者も働き口を紹介されては村を出ていく。行き先は誰も知らない」
「領主様は、どんな方なの?」
「あんた、よそ者にしては随分と突っ込むね」
老婆は一度手の中の銀貨に目をやると小さくため息をついた。
「名はヴァーリシュ。領主になったのは数年前。元はこの辺りの出身じゃないはずだよ。……獣人だという噂もあるけど、誰も顔を見たことがない」
「……顔を?」
「屋敷は村外れの高台にあるけれど、誰も近づかないからねぇ」
老婆はそれきり口を閉ざし、布地をたたむ仕草を始めた。
フーリェンは彼女に礼を述べると、風の抜ける小道を歩きながら思案を巡らせた。
姿を見せぬ領主に、村から姿を消す若者。そして高台にある屋敷。そこへ近づけば、何かが分かるだろう。
彼女は一つ呼吸を整えて立ち止まった。迷いを断ち切るように細い猫の尾を一振する。
陽が傾き、村に影が伸びる。そして夜が来る。
この地に巣食う“気配”に、もっとも近づける時間だ。




