偵察2
踊り子を名乗る猫の獣人は、男たちの視線を集めながら薄暗い酒場の一隅に身を寄せていた。黒衣を少しだけ崩し、肩をのぞかせている。酔客の視線が時折絡みつくが、表情は微動だにしていない。
「お嬢さん一人かい?」
声をかけてきたのは村の警備兵だという中年の男だった。鼻声で、酒臭い息を吐いている。
「旅の途中で、ひと息つきたくて。……この村、噂が多いのね」
「噂? 何の?」
「若い子が突然いなくなるって」
男の目が一瞬細まる。だがすぐに笑みが戻った。
「よくある話さ。どこだって働き口の紹介ってのはあるだろう。領主様が雇ってくださるんだ。食いっぱぐれた奴にはありがたい話だ」
「じゃあ、戻ってきた子もいるの?」
「……さぁな。雇い先が遠いんでな」
琥珀色の瞳が、じっと男を捉える。猫らしい艶めいた仕草を織り交ぜつつ、フーリェンはテーブルの下にある足をゆっくり組み替えた。
「お嬢さん、あまり深入りしない方がいい。あの屋敷には招かれた者しか入れな――」
続きを言いかけた男が、不意に言葉を切った。視線は入口へ向いている。彼にならい、ちらりとそちらへと視線を流すと、黒い外套を羽織った男が二人、音もなく入ってきたところだった。そのうちの片方と目が合うも、そのまま奥の個室へと消えていく。
フーリェンはその背を見送りながら席を立つと、さりげなく男の袖を引いた。
「ねえ、案内してくれない? お屋敷を見てみたいの」
「……正気か?」
「もちろん。ちょっと、覗くだけ」
微笑とともに細い指先が男の腕に触れた。
数刻後。
村外れの林の影。屋敷の輪郭が遠目に見えるその場所に、フーリェンは立っていた。黒い瓦と高い塀。屋敷の裏手には厩のような小屋がいくつも並んでいる。しかし、そこに入っていくのは馬ではなかった。
「あれは……」
獣人の若者たちだ。無表情に、小屋に吸い込まれていく。
「最近じゃ、あそこに連れてかれた奴は戻ってこない。あんた、もうこれ以上は──」
「……ありがとう。ここから先は、私ひとりで行くわ」
フーリェンはひらりと細い尾を振ると、夜に紛れて男の前から姿を消した。
領主の屋敷で何かが行われている。そしてそれは“自発的な奉仕”ではない。夜風に乗って、微かに鉄の匂いが鼻をかすめた。
ここからでは分からない。一度、離れて様子を見るべきか。
目元を鋭く光らせ、フーリェンは塀の外に身を滑らせた。
――――
月明かりが差し込む水路のそば。ひと気のない時間を見計らって、ひとりの若者が汲み水にやって来た。表情は曇っており、足取りにはどこか迷いがあった。
「……あなた、屋敷に入ったことがある?」
その声にバケツを持つ手がびくりと震えた。立っているのは雌猫の獣人。艶のある外見とは裏腹に、彼女の声には緊張が滲んでいた。
「……誰、ですか」
「旅の者よ。あの屋敷で何が起きているのか、知りたくて来たの」
「……話せません。話せないんです、本当に……!」
若者は首を振り、足早に立ち去ろうとする。フーリェンは咄嗟に手を伸ばした。爪を立てないよう気をつけながら、だがしっかりとその腕を掴んで離さない。
「あなた、まだ正気ね」
「……?」
「私はこの村の者じゃないわ。だから、大丈夫」
若者は戸惑いの混じった視線をフーリェンへと向けた。
「……屋敷では、最初に茶を出されます。飲めと言われて、断れません。飲むと……頭がぼんやりして、時間の感覚も――」
「……名前は?」
「セラン。屋敷に入って一週間くらい……だと思います。……それ以上いた人は……皆、無表情で。命令に逆らわない。操られているみたいでした」
「あなたは?」
「僕は逃げ出した。夜、監視の目が一瞬だけ緩んだときに。けど……」
彼の手が震える。その瞳は、恐怖に濁っていた。
「何かが、屋敷の地下にいる。……言葉じゃ説明できないけど……人じゃない、何かが」
フーリェンは軽く頷くと、セランの腕をそっと離した。
「それで十分。ありがとう」
「あなた、いったい……」
「気にしなくていい。今話したことは忘れて。……忘れられるうちは、まだ戻れるから」
それだけ告げると、フーリェンは彼に背を向けた。
地下に何かがある。そう確信しながら、彼女は再び屋敷の影へと足を向けた。
闇夜に潜む猫の瞳が真実を射抜く刃に変わるその時は、すぐそこまで迫っていたのだった。




