第一章 静謐なる帳の中で
【世界】
第四軍…フーリェンが隊長を務める軍。新兵を中心とした若者で構成されている。
王宮・西棟。
ここには、王国軍に属する兵士たちのための大部屋や各王子の直属護衛の獣人のための自室が並んでいる。
陽が傾き始めた頃、フーリェンは静かに自室の机に向かっていた。先ほど届けられた木製の文箱の中には、一通の封書が置かれている。
それは、どこか湿り気を帯びた氷の香り──
届いたばかりのシュアンランからの手紙だった。
小さく息を吸って封を切る。
手紙は、彼らしく飾り気のない筆致で綴られていた。
―――
フーへ。
任務は順調。今は西の監視拠点にいる。空気が乾いていて、朝は少し冷える。お前とは入れ違いになってしまったな。残念だ。
この前話していた花畑の近くを通った。まだ咲き始めだったけど、白い花が多かった。
お前が言ってた通りだった。ああいうのを見ると、なんとなく、お前を思い出す。
飯は、まあ、それなりに食べてる。お前はまた、味も気にせず黙々と食べてるんだろうな。
俺の方は大丈夫。特に変わりもない。
無理をするなよ。お前はそういうところがあるから。
返事はなくていい。だけど――
本当は、すぐにでも会いたいと思ってる。
―――
薄紙を丁寧に畳んで、封筒の中へ戻す。
フーリェンは深く息をついた。
手紙には飾った言葉はなかった。
けれど、それが何よりもシュアンらしい――そう思えた。
窓から吹き込む風が、カーテンを揺らす。
遠くから聞こえる訓練場の掛け声と、鳥のさえずり。
少しだけ、胸の奥が温かい。
そんな穏やかな空気を破るように、控えめなノックが扉を叩いた。
「フーリェン隊長、ご在室でしょうか」
その声は、フーリェンが隊長を務める、第四軍の兵士の一人、訓練担当の青年のものだった。几帳面そうな声が、ドア越しに響く。
「……いる。どうした」
「本日、午後の訓練に余裕ができまして。もしお時間があれば、稽古をお願いできればと思い……」
扉を開けると、そこにはやや緊張した面持ちの若い獣人が立っていた。まだ新米に近いが、真面目で筋がいいとフーリェンも認めている一人だ。
「……分かった。訓練場か」
「はいっ、準備を整えてお待ちしております!」
軽く頷き、フーリェンは机の上に封筒を戻した。
久しぶりに身体を動かすか、と。手紙に少し浮きたつ気持ちを抑えるように、フーリェンは静かに部屋を後にした。
**
訓練場に着くと、すでに数名の兵士たちが待っていた。若手ばかりだが、目の色は真剣だ。
そこへフーリェンが現れると、場の空気が一瞬引き締まった。
「よろしくお願いします!」
「……始めよう。手加減は、しない」
無表情のまま、フーリェンは軽やかに構えを取る。
陽の下、白銀の髪がふわりと舞い、
淡い陽光を受けたその横顔は、まるで氷の彫像のように凛と美しい。
誰よりも静かで、誰よりも強く――
兵士たちは、思わず息を呑む。
今日もまた、王宮の護り手はその力を振るう。
命じられたわけでもなく――ただ、守るべきもののために。
**
王宮の訓練場は、夕刻近くの淡い陽を浴びて、白石の床が微かに金色を帯びていた。空気は澄み、風はない。まるで息を潜めるような静けさの中、フーリェンは無言で立っていた。
「……本当に、お手合わせいただけるんですね?」
目の前でそう尋ねたのは、若い兵士の一人。まだ十代の半ばか、少年の面差しが残る獣人だった。種族は豹。俊敏さと力の均衡に優れた者だ。
「手は抜かない」
フーリェンの声は淡々としていたが、どこか重さを含んでいる。少年はごくりと唾を飲み込むと、構えを取った。
すでに多くの兵士が訓練場の周囲に集まっていた。
こうしてフーリェンが実戦以外で剣を抜く機会は、滅多にないのだ。
そして、始まった。
フーリェンは――構えなかった。
抜いた木剣を手に、無駄なく、無理なく、足元すら動かずに一太刀。
少年の突きが来るよりも早く、その腕の動きを「読む」ように避け、斜めに打ち込む。
それだけで、少年は手から剣を落とした。
「っ……!」
決して力強いわけではない。
それでも、彼の動きはまるで水の流れ。予測すらさせず、軌道すら掴ませない。
「もう一度!」
少年は悔しげに立ち上がる。フーリェンは何も言わず、再び正面に立った。
二度、三度、四度――
流れるような動作の中で、ただ一度も能力を使わず、ただ剣技のみで応じ続けるフーリェン。
木剣は空気を裂くが、彼の衣の裾すら掠らない。
それでも、その戦いぶりにはどこか優しさがあった。
あえて打ち倒さず、動きの誤りを“感じさせる”ように軌道を合わせる。ただ打ち勝つのではない。教えるわけでもなく、伝える技。
やがて――少年は肩で息をしながらも、目を輝かせて立ち上がった。
「ありがとうございました……!」
「よく鍛えていると思う。……これからも励め」
フーリェンの表情は変わらなかった。けれど、周囲の兵士たちは静かに息を飲んだままだった。
彼の戦いは、美しいというより、凄まじい。
何も“していない”ようでいて、何もさせていない。
日が傾き始めた頃、訓練場に控えていた兵士の一人が、遠慮がちに口を開いた。
「……あの、もし可能であれば、複数人でのお手合わせもお願いできますか」
フーリェンは目を細めたまま、小さく頷く。
「わかった」
直後、周囲にいた三人の兵士がすぐに前に出る。種族もそれぞれ異なり、狼、山猫、そして猪。俊敏さ、柔軟さ、重量――三者三様の間合いを持つ者たちだ。
「武器は?」
「木剣、で」
返答を聞くと、フーリェンは一度訓練場の端へと歩き、無造作に棚から一本の練習用槍を抜いた。木製ながら細身の長槍。その動きに、場にいた兵たちがわずかにざわめく。
フーリェンが、武器を変えた。
それはつまり――
“複数を相手にする”という本気の合図だった。
槍を静かに構えたまま、フーリェンは再び中央に立つ。
「……始めていい」
それが合図だった。
三人が同時に動き出す。挟撃の形で迫る狼と山猫、その背後から間合いを測って突進の構えを取る猪。
だが、フーリェンの動きは速くも、重くもなかった。ただ静かに――一歩、踏み出す。
槍が唸りを上げる。
最初に接近してきた山猫の腕を、柄の部分で制し、同時に柄の反動を利用して背後に一回転。
振り返る間もなく、突進してきた猪の腹部へ槍尻を突きつけ、力を逃がすように受け流す。
「ぐっ……!」
勢いを殺された猪の青年が膝をついたその瞬間、槍の穂先が狼の喉元にわずかに触れる。
全てが流れるような動きだった。
力は要らない。ただ、隙を読む。軌道を奪う。そして、命の線を突く。
三人は肩で息をしながら、降参の合図を送った。
槍を手にしたフーリェンは、しばしその場に佇み、呼吸ひとつ変えずに訓練場を見渡す。
日差しの色はさらに赤みを帯び、フーリェンの白髪と琥珀の瞳をより鮮やかに浮かび上がらせていた。
それは、まさしく“無音の死角”――王宮を護る者にふさわしい、静けさの刃だった。
**
日が傾く訓練場の隅で、片付けをしていた兵士の一人がぽつりと呟いた。
「……あれで、能力を一切使っていないんだもんな」
「使ったら、どうなっちゃうんだろ……」
想像したくない、という顔をして笑いあう兵士たちの背後を、音もなく通り過ぎる白髪の影。
「…背後を取られているようじゃ、まだまだだね」
「……!?」
珍しくくすりと笑ったフーリェンに、兵士たちは息をのむ。
(この人から一本を取れるようになるの、一体いつだろう…)
そんなことを思いながら、兵士たちは背を向けて歩き出すフーリェンの姿をその目で追った。