第四軍
王宮・西棟――
午後の陽が穏やかに差し込む一室に、静かな紙のめくれる音が響く。第四王子ルカの執務室。整えられた書架と、広くとられた窓辺には観葉の薬草がいくつか育てられており、厳めしい軍の空気とは無縁の静謐さに包まれている。
ルカは手元の書類に目を通していたが、控えめなノックの音にふと顔を上げた。
「どうぞ」
扉を開けて現れたのは、いつもと変わらぬ無表情のフーリェンだった。膝を折り、簡素な礼を取る。
「先ほど、アスランとの合同訓練についての調整会議にて、訓練の具体的な流れと布陣について協議しました」
ルカは静かに頷き、手元の筆を置く。
「ありがとう、フー。……参加部隊の構成についても決まった?」
「はい。各軍が交代制で訓練に参加する形式で決定しました。王都と王宮の警備を手薄にせぬよう、常時一定の戦力を残します」
「合理的だね。……三日目の選抜戦については?」
「各軍より能力に優れた兵士を選抜し、野営戦として実施する方針です。アスランの構成と特性を踏まえ、夜戦を想定しています」
ルカは窓の外に目をやった。庭では侍女たちが静かに薬草を摘んでいる。だが、その穏やかさとは裏腹に、彼の声音にはどこか沈みがあった。
「……第四軍の選抜は、どうなりそう?」
その問いに、フーリェンのまぶたがわずかに揺れる。そして少しだけ間を置き、静かに口を開いた。
「人材は、他軍と比して劣ります。年若く、戦場経験も浅い者が多い。能力持ちも少なく、前線の指揮には耐えません」
率直な評価。だが、それは決して軽蔑でも侮蔑でもなく、ただ事実だけを静かに述べたにすぎなかった。ルカは、それでも微笑を浮かべた。
「でも――だからこそ君は、彼らに強くなってほしいんだよね」
その言葉に、フーリェンはすっとルカの目を見た。
「……そう、ですね」
「うん。君がいつも彼らに気を配ってくれているのは、ちゃんと伝わってくるよ」
柔らかな声。だがその裏には、王族としての鋭い観察眼が確かにある。
「彼らに必要なのは、戦う経験だけじゃない。信頼される経験だ。誰かに”見ている”と感じさせることが、彼らを変えていく」
「……必要とされていると、感じさせること」
ぽつりと、繰り返すように呟く。その声にルカは再び書類に目を落とすと、そっと筆を取り直す。
「ありがとう、報告は十分だよ。あとで少し、選抜兵の名簿も見せてほしいな」
「……承知しました」
フーリェンは深く一礼すると、再び音もなく部屋を後にした。扉が閉まると同時に、執務室は静寂に包まれる。窓の外を見やる。視界に移る青色の空には、渡り鳥たちが翼を広げていた。
(“備え”の先にある未来が、どうか穏やかなものでありますように)
彼の祈りは誰にも聞かれることなく、午後の陽に溶けていった。
――――
夏の気配を感じさせる光が訓練場の地面に反射する中、第四軍の兵士たちが訓練場の広場に整列していた。総勢五十名あまり。顔には緊張がにじみ、額にはうっすらと汗が浮かぶ。どの兵士も若く、中にはまだあどけなさの残る者や、初陣すら踏んでいない者も多い。そんな彼らの前に立つフーリェンの足取りは、静かで、揺るがなかった。無表情のまま、一歩前に出て、冷えた朝の空気を切るように声を上げる。
「静粛に」
それだけで、ざわついていた列がピタリと止まった。彼の放つ威圧ではない気配――けれど、ひと目で”違う”とわかる、隊長の風格。
「第四軍、全隊へ通達」
その声は淡々としているのに、なぜかよく響いた。緊張と共に、兵たちは息を呑む。
「来月初頭、ここフェルディナの地にて――アスラン王国との合同訓練が行われる」
ざわりと、空気が動いた。
「アスランって、あの……氷の国の……?」
「合同ってことは、一緒に訓練すんのか……?」
低く、抑えきれぬ声がいくつか漏れたが、フーリェンはそれを無視して続けた。
「今回の訓練は、他国との友好を示すための公式な軍事演習だ。だが同時に、各軍が兵の実戦能力を測るための場でもある」
その言葉に、列の中に緊張が走る。”測る”――その言葉が意味するものを、彼らなりに理解したのだ。
「第四軍は、知っての通り若年兵を中心に構成された部隊だ。戦場経験は浅く、能力持ちの割合も少ない。だがそれは、戦えない理由にはならない」
凛とした声。兵たちは思わず息をのんだ。
「――必要なのは、自分が何をできるかを知ること。そして、その一手を磨くことだ」
フーリェンの視線が、ゆっくりと列の中を泳ぐ。その瞳には侮りも見下しもなかった。
「各小隊長は、今週中に選抜候補を提出。三日目の野営戦に参加する選抜兵は、僕が直接確認する」
再びざわつきが広がった。期待、不安、混乱――若き兵士たちの胸に去来するものは多い。だがそのすべてを、フーリェンは一切変わらぬ口調で締めくくった。
「他の軍に劣るかどうかは、お前たちが決めることだ」
その言葉に、若者たちの背筋が少し伸びる。
「以上。各員、訓練に戻れ」
号令の声とともに、列は散っていく。その背中に不安と期待が入り混じるのを、フーリェンは静かに見送る。目を伏せた彼の胸には、たしかな責任があった。王子の護衛であること。そして、戦場に立つ者として、若き兵士の指標であるべきという心構え。
彼もまた、ひと月後に行われる合同訓練に向けて、覚悟を新たにしたのだった。




