朝2
朝日がゆるやかに家々の屋根を照らしはじめる中、王都は嘘のように静まり返っている。昨夜まで喧騒と歓声に包まれていたはずの石畳の道には誰の足音もなく、朝露がきらりと光るばかりだった。
そんな道を、並んで歩く二人の獣の姿があった。
「……最終日とは思えない静けさだな」
ぽつりと漏らすシュアンランの声に、フーリェンはこくりとうなずく。その頬にはまだ朝の冷たさが残り、吐く息がかすかに白く揺れた。
「……寝てるね」
「ま、あれだけ騒げばな」
言いながら、すれ違った老人が「ほぅ」と目を細めてふたりを見送り、小さく笑う。フーリェンはすっと背筋を伸ばすと、少しだけうつむいた。
「……どう見ても、兵士に連れられてる町娘だよね、これ」
「そう見えるな」
「笑うな」
「笑ってない」
それでもシュアンランの口元がかすかに緩んでいるのを見て、フーリェンは軽く睨みをよこす。
石畳を踏みしめるたび、昨日と同じ素朴な布のスカートがわずかに揺れた。朝の光に透ける髪が柔らかく風に流れるたび、彼女の仕草にはどこか儚げな印象すら宿る。
「どうしよう……このままじゃ王宮に入れない」
「普通に正面から入れば?それあるんだし」
そう言ってシュアンランは、フーリェンの首元で揺れる銀の紋章を指さした。
「いや、…そうなんだけど」
「なんだよ。嫌なのか?」
「まぁ、……そう」
そんなフーリェンの曖昧な返事に、シュアンランは首をかしげる。
「……じゃあさ、昨夜はどこから出てきたんだ?」
ふとした調子で隣を歩く彼女に問いかけると、フーリェンは少し間を置いて答えた。
「ジンに手伝ってもらった」
「あぁ、なるほど…」
シュアンランがくすっと笑うと、フーリェンは少しだけ肩をすくめた。
「門番の当番、見てなかったけど……たぶん、今日もジンが早番じゃなかったかな……」
歩きながら、記憶をたぐるように小さく呟く。眉間に皺を寄せ、頭の中で当番表をめくるように、ひとりごとのように誰かの名前を呟き、そして小さく息を吐いた。
「……ジン、まだ門にいるかな」
「どうだろ…取り合えず、行ってみないことには分からないな」
「そうだよね…」
ふたりの足取りは、やがて王宮の外壁へと近づいていく。しばらくすると高い外壁と、その根元に控える南門の姿が静かに立ち現れる。
だが、門の前に立っていたのは――見慣れた兄の姿ではなかった。
「……あれ」
代わりにそこにいたのは、フーリェンもよく知る第四軍所属の若い兵士。稽古に付き合うといつも目を輝かせるヒューマンの男、テイラーだった。思わず足を止める。
「どうする?」
隣で問うシュアンランに、フーリェンは僅かに眉をひそめた。
「……何でよりにもよってあいつなんだ」
困惑の色がにじむ彼女の横顔を見ながら、シュアンランはしばし考え、さらりと言った。
「俺だけ先に入って、服を取ってきてやろうか?」
フーリェンはちらりとシュアンランの顔を見たが、その案には首を横に振る。
「だめ。今度は帰りが怪しまれる」
「……贅沢な悩みだな」
からかうように笑う狼男に、フーリェンはムスッとした顔を向ける。だがその灰銀の髪に目をやると、急に何かを思いついたようにぴたりと立ち止まった。目を細め、すぅっと深く息を吸い込む。
「……思い付いた」
そう言ったかと思うと、次の瞬間――その姿は、灰銀の長髪をたなびかせた、涼やかなヒューマンの女性へと変わっていた。それは、紛れもなくシュアンランの姉――ユキの姿だった。
「……おい」
驚いたように声を漏らすシュアンランに、ユキの姿をしたフーリェンが少しだけ肩をすくめてみせる。
「この方が通れると思って」
「確かに……通れるだろうけど」
「よし。これで行く」
うんうんと頷いたその仕草も、妙に似ていて可笑しく、だが同時に、よく見慣れたフーリェンの器用さが感じられた。
「じゃあ、先に行くね。門を通って、服だけ取って戻る」
「ああ。気をつけろよ、姉ちゃん」
「ふふ」
ユキの声色をまねて微かに笑った“フーリェン”が、軽やかに王宮の門へと向かっていく。その背を見送りながら、シュアンランは小さくため息をついた。
「……あいつ、器用すぎるんだよな、こういうとこだけ」
それでも、目元には笑みが浮かんでいた。門の兵士がぴんと背を伸ばし、“ユキ”を迎え入れる様子を見ながら、彼はその場でぼんやりと空を見上げる。数分後、無事に隊服を手にした“姉”が戻ってくることを、彼はもう疑っていなかった。
――――
朝靄がすっかり晴れたころ、日課の剣の手入れをしていたジンリェンのもとに、二つの影が並んで現れた。
「おはよう」
声をかけたのはフーリェンだった。すでに見慣れた隊服に着替えており、いつも通りの弟の姿である。その隣には、シュアンラン。こちらは夜通し同じ服のままだったが、疲れた様子はなく、むしろ妙に上機嫌に見えた。
ジンリェンは剣を磨く手を止めて、ちらりと顔を上げた。
「お前……昨日と服、違くない?」
何気ないひと言だったが、弟の肩が一瞬ぴくりと動いたのをジンリェンは見逃さなかった。
「着替え、持って行ってたっけ?」
「……いや、持って行ってない」
フーリェンは、何事もなかったかのように淡々と答える。
「だから、さっき取りに帰った」
「へぇ。で、どうやって?」
「……いろいろあって、なんとか」
その横でずっと堪えていたシュアンランが、とうとう吹き出した。
「……あ、だめ、思い出したら笑える……っ」
そんな狼男をフーリェンは少しだけ睨んだが、それも効き目はない。
「なぁ、ジン。聞く?聞きたいよな?お前の弟、すごいことになってたから」
「……まさか」
ジンリェンは顔をしかめつつも、何かを察したように視線をフーリェンへと向ける。
「ユキの姿で入ったのか?」
フーリェンは無言で視線をそらした。シュアンランは腹を押さえて笑い続けている。さすがは同じ血を分ける兄弟であるというわけか、辿り着く思考は同じである。
「ユキ、知ったら顔真っ赤にして怒るぞ。いや……案外、乗ってくるか?」
「やめて。冗談でもやめて」
「それにしても……王宮の門、ユキの姿で通るとか、ある意味で勇者だな、お前」
ジンリェンは肩をすくめながら、剣を鞘に戻した。
「ま、でも楽しかったんだろ? 顔に出てるよ、二人とも」
そのひと言に、フーリェンは少しだけ眉を寄せて黙り込む。そんな彼の隣で、シュアンランが軽く笑った。
「楽しかったよ。留守番ありがとな」
「それならいいさ」
そんな二人の様子に、満足そうにジンリェンは頷いた。
「……そうだ、ジン。今日も南門の当番じゃなかったっけ?」
ふと思い出したようにフーリェンが問いかけると、ジンリェンは「ああ」と軽く頷いた。
「第四軍の連中に飲みに誘われてな。酒が飲めない兵士に代わってもらった。たまにはいいだろ」
「…そう、だったんだ」
「それよりお前さ――」
ジンリェンはすんと真顔になり、剣を手入れしていた布をぽんとたたいた。
「紋章、持ってるんだから正面から堂々と入ればよかったのに。わざわざユキの姿で入らなくても―」
隣のシュアンランも小さく頷く。
「それは俺も言った。けどなんかフーのやつが…」
ふたりの視線を一身に受け、フーリェンは言葉に詰まったまま気まずそうにそっぽを向く。白い尾が落ち着きなく揺れ動いている。
「……いや、なんか……その……」
顔にうっすら赤みを帯び、なぜか耳まで染まりかけているフーリェンを見て、今度はジンリェンまで吹き出した。
「おいおい、らしくないぞ、フー」
「……うるさい」
そんな、他愛のないやりとり。朝の光が訓練場にやさしく差し込んでいた。
こうして王都は今日も穏やかに、そしてどこか、楽しげに目を覚ましていったのだった。
第三章 ウエディング祭編 完
(日常談・後日談)
王宮の獣護-日常-
ep1.浴場
ep2.双子と狼少年
ep4.ワイン




